花火

 恋って、花火みたいなものなのかもね。
 呟くようにして言った彼女の言葉が、私の耳からなかなか離れなかった。


        ***


 お祭りのざわめきが、遠くに聞こえている。辺りはすっかり暗くなって、これから始まるイベントの準備は整いつつあるようだった。
「花火、何時からだっけ」
 私が尋ねると、隣のみほは八時、と短く答えた。そして彼女は、ビールの缶をあおる。携帯を開いて時刻を確認する。午後の七時四十八分。今日のメインイベントまで、もうすぐだ。
「よくこんな場所知ってたね」
 柿ピーの袋を開けながら私は言う。こんな場所、というのはお祭りの会場から少し離れた公園だった。小高い丘の上にあるここは、花火がよく見えるという穴場 らしかった。公園には、私たち以外誰もいなかった。
「このまえ散歩してたらここを見つけてさ」みほは言う。「他にも人が来ると思ってたけど、来ないね」
「それだけ穴場ってことだね」
 私の言葉に、みほは誇らしげだった。
 今日は、近所でお祭りのある日だった。これがなかなかに大規模なお祭りで、出店は列を連ねて並ぶし、人出も相当なものである。そしてこのお祭りの目玉が、 これから行われる花火なのである。
 近場で行われるということで、私たちはほとんど毎年お祭りに来ているが、花火を見たのは一度だけ、ここへ越してきた年だけだった。私たちはあまりの混雑に すっかり辟易してしまい、翌年から花火を見ることはなくなった。出店をいくつか回って、人が増えてきたあたりで早々と引き上げるようになったのである。
 しかし今年は、みほの見つけた穴場のおかげで人ごみに悩まされることはなさそうである。そういう意味で、みほの発見は偉大だった。本当に。
「花火、楽しみだね」  私が言うと、みほはくすりと笑った。
「香織、はしゃぎすぎだよ」
「えー、そんなにはしゃいでないよ」
「嘘。『楽しみだね』って、何度も言ってるよ」
 言われてみると、確かにそうかもしれない。私はこのお祭りの日を、ずいぶんと楽しみにしていたような気がする。
「……みほと花火が見られるんだもん」私は続ける。「楽しみに思うのも、仕方ないよ」
 隣のみほは何も言わなかった。ぐいとビールを飲む。照れているのだな、と気づいて私はにんまりとする。
「なに、にやにやしてるの」
 みほの言葉。私が「べっつにー」とにやにやしながら応じると、彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
 時刻は七時五十六分。私はチューハイの缶に口をつける。隣に目をやると、みほは黙って空を見上げていた。私は彼女を見つめる。みほは綺麗だと思う。
「……私もさ」
 突然にみほが口を開いた。彼女は顔をこちらに向けて、少し頬を緩めながら、続ける。
「香織と花火が見られて、うれしいよ」 その言葉に、私は俯く。いま、みほに自分の表情を見られてしまうわけにはいかなかった。こんなににやにやした所を見られたら、みほに何て言われるかわかったものではない。
 瞬間、空気が震えた。
 びりびりと震えて、重たい音が私の耳に届く。驚いて顔を上げる。花火が始まったのだった。
 次々と、夜空に花火があがっていく。紺色のキャンバスに、彩りにあふれた花が描かれていく。咲いた花はすぐに散って、入れ替わるように次の花が咲く。
 私たちは、何も言わないでその光景を見ていた。花火の音だけが聞こえていた。みほは時折、ビールをごくりごくりと飲んでいる。 やがて、花火は打ち上げられなくなった。静寂が公園に戻ってくる。
「おわりかな」
「いや、少し時間を空けてるんだよ。少ししたらまた始まると思うよ」
 みほの言う通り、少ししたら再び花火は始まった。咲き乱れるそれらを眺めながら、綺麗だね、と私は言った。打ち上げの場所から離れているせいか、花火の音は私たちの会話を邪魔するほどではなかった。
 本当にね、とみほが言う。彼女はずいぶんと顔が赤くなっていた。酔ってるな、と思った。
 花火は次々と打ち上がる。それを眺めながら、みほが呟くようにして言った。
「恋って、花火みたいなものなのかもね」
 いきなりどうしたのだろう、と私は思う。お酒が入ると、みほは少しだけ言動がおかしくなる。
 けれどその言葉は、酔いにまぎれて言ったにしては、随分と耳に残る言葉だった。どうして、と私は尋ねる。みほは、うーんと唸りながら、
「分からない」
「なにそれ」
「なんとなく思っただけなんだもん。なんとなく」
「なんとなくなら、仕方ないね」
「そ。仕方ない仕方ない」
 どこか楽しげにそう言いながら、みほはあたりめに手を伸ばす(楽しそうなのはお酒のせいだろう)。私は空き缶を弄びながら、花火の打ち上がるのを見ている。

 恋は花火に似ている——。

 そんなことを、私も唐突に思った。そう、恋と花火は似ているのである。一気に燃え盛って、そして夜闇に溶け去っていくその様が。
 恋は、そういうものなのだ。盛り上がるだけ盛り上がって、やがて消えてなくなって——。
「香織」
 不意に名前を呼ばれる。みほの方を向くと、彼女は真剣な顔をしていた。怖い想像に至ろうとする私を、引き止めてくれた。
 私たちはしばらく見つめ合う。花火は際限なく打ち上がる。そして私たちは、どちらからともなく顔を近づけた。
 花火の音だけが聞こえている。唇を離して、私たちは照れ笑いを浮かべる。ビールの匂いのするキスだった。
 恋は、いつか散ってしまうものだ。花火のように、僅かな火の粉だけを残して、消えてしまうものだ。
 私たちは、いまどこにいるのだろう。打ち上げられた直後なのか、夜闇に向かって登っている途中なのか、盛大に花開く瞬間なのか、それとも、散り去る直前なのか——。
 好き。みほが言った。好きだ、ともう一度言った。私も、好き、と言う。みほのことが好き、と。私たちは何度も愛の言葉を重ねあった。何かをつなぎとめようとするみたいに、何度も何度も。
 みほが、私をぎゅうと抱きしめる。彼女からはお酒の匂いがする。私も、みほの背中に腕を回す。みほは温かい。みほの吐息が首に触れて、少しくすぐったかった。
 きついくらいに、私たちは抱きしめあう。花火は夜空を照らしている。打ち上げの音が、虚空を震わせている。
 そうして私たちはずっと、抱きあっていた。互いにしがみつくようにして、いつまでもいつまでも、抱きあっていた。

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