交差

 きれいな飛び込みだなあ、と思った。
 けれど「きれい」というのは、美しさだとか、芸術性だとか、そういうことを言うのではなく、ただどこまでも漫画的だったということだ。その人は何かにつまづいて、その身体は宙に浮いた。茶色のコートがひらりと舞う。その日、街には珍しく雪が降っていた。ひどく乾いた雪だった。月の明るい冬の夜は底冷え。白い息はもこもこと形を変えて夜に溶けて、信号は赤に変わった。そうして全ての光がゆるやかに冷やされていく世界で、彼女は見事に、顔からコンクリの歩道にダイブした。
 思わず、感嘆の声が漏れた。
 道行く人は足を止めた。街の時間が止まった。そうしてたくさんの天使が通りすぎた後で(私は彼女たちがこの人を連れていってしまわなくて良かったと思った。少年と犬の迎えた最期みたいに。)、そういえば、と思い出す。私はこの広い世界中で、こんなまぬけな転び方をする人を一人しか知らない。
 いま信号は青に変わった。
 凍った光は排気音と共にゆっくり融け出して、私たちにかかった魔法も同じだった。知らんぷりで歩き出す人たち。くすくす笑い。地面にうずくまる影に、慌てて駆け寄る善良な市民三人。
「大丈夫ですか」と私。
「あらあらあら」と中年のやせたおばさん。
「立てますか、動けますか」とビジネスコートのサラリーマン。
 三人に囲まれる中で、その人はゆっくりと上体を起こした。うううと小さく呻いて、そして、涙をたっぷり湛えた目を持ち上げて、
「大丈夫です、すみません」
 そう言って笑った。涙は音もなくこぼれた。その水滴のやわらかな輪郭は街の灯りを撥ねた。
 私は途中で拾った眼鏡を差し出す。「お久しぶりです、田中先輩」
「え」
 先輩はきゅっと、レモンを搾るみたいに眉根をよせて(その拍子にぽろぽろと、たくさんの雫が頬を伝った)、
「……佐倉ちゃん?」
「はい、先輩」
 このまぬけな四年ぶりの再会が、彼女の人生のひとつの笑い草になればいい、と私は願った。神様に祈るみたいに、敬虔に。

 田中夕子は高校時代のひとつ上の先輩だった。
 帰宅部志望の私だったけれど、全ての生徒は必ずどこかの部・愛好会には所属しなければいけない決まりがあったので、顧問の先生のやる気もなく、結果幽霊部員の多いと聞く軽音部に入ることに決めた。スポ根には飽き飽きしていたし、別段、手先も器用じゃない。情熱もない。怠惰にモラトリアムを溶かせればいいと思っていた。けれど四月の若緑に囲まれていると、帰宅部もいいが友達を増やすのも悪くない、なんて吹き回しになって、初夏の風がさわやかに薫る頃までは、よく部室に顔を出していた。田中先輩も同じようなくちだった。
「新歓期くらい手伝えって言われてさ」
 そう言って笑う彼女は、何の楽器もできないらしかった。それはその後の二年間、変わることはなかった。

 まぬけと私が知り合いらしいと分かると、おばさんとサラリーマンは気遣いの言葉を残して去っていった。その間に先輩は、自分の眼鏡がひどくひしゃげていることに気がついて、参ったなあと何度もこぼした。
「裸眼で生きられるんですか」
「無理。〇・〇五もないもの」
 私はこの人が眼鏡をはずしたところを見たことがない。
「コンタクトの方がいいですよ、転んでも壊れないし」
 先輩は眼鏡をかかげて、比較的無事なレンズを通して私を見た。
「怖いから嫌だ」
「慣れますよ」
「慣れない恐怖もあるよ」
 私は頷く。「例えば、転ぶこととか」
「うるさい」
 その息に少しお酒の匂いの混じっていることに気がついた。忘年会の季節だ。
 田中先輩はコートやジーンズの砂埃をはたいて、ゆっくり立ち上がった。そうだ、先輩はちょうどこのくらいの身長だった、と思い出す。私より、あたま半分だけ高い。昔とこの頃の記憶がないまぜになるような感覚。
 先輩は小さく首を傾げる。
「どうしたの。キスでもする?」
「酔っぱらい」
「……ちょっと反省する」先輩は小さくはにかんだ。「大人になって、こんな派手に転ぶとは」
「これあげますから、少しは覚ましてください」
 私はコンビニの袋からレモン牛乳を取り出した。ちょっと不服そうにそれを受け取った先輩は、
「これあんまり好きじゃないんだけど」
「私は好きなんです、元気になりますよ」
 そして目を細めながらストローをパックに突き刺して、静かに口をつける。

 梅雨のはじまる頃には私は立派な幽霊部員になり、田中先輩もそれに戻っていた。
 私たちは格別仲のいいわけでなかった。学校ですれ違えば挨拶もするし、時おり短い立ち話もしたけれど、それ以上のものではなかった。私は級友を大事にしたし、田中先輩も同じだった。彼女の、友人と楽しそうに廊下を歩く姿を何度か目撃した。その時先輩は私に気がつかなかった。私も、「田中先輩だ」とぼんやり思っただけだ。私が気づいていないだけで、その逆のことが何度かあったはずだ。先輩は私と同じように、「あ、佐倉ちゃんだ」と思っただけだっただろう。そのこともすぐに、別の考え事に取って代わられただろう。
 あるどんよりの帰り道、偶然、田中先輩と一緒になったことがある。昇降口を出て、雲は厚く暗く、これはひと雨くるかしらとため息をついたら、隣に彼女が立っていた。彼女もため息をついていたものだから、お互い目を合わせて、小さく笑った。
「もう帰り?」
「はい」
「軽音部は?」
「先輩と同じ感じです」
 雨のふる直前は不思議な匂いがする。大地が、雨のくることを分かっているみたいに、その準備を始める。そのむっとした、湿っぽい匂いがあたりには充満していた。案の定、帰り道で降られた。ぽつぽつと数滴が地面を濡らしたと思ったら、すぐに大雨になった。私たちは屋根のある商店街まで走った。その途中で田中先輩は盛大に転んだ。まぬけな転び方だった。そのくせ、水を含んで重くなった髪を頬に張り付けて、へらへら笑っていた。
「ばかみたい」
「本当ですよ」
 頬と眼鏡のレンズについた泥は私のハンカチが拭き取った。夏をまちわびる六月のことだ。

 キスの手順は、完璧に私の身体になじんだものだった。少しの背伸び、目をつむるタイミング。そしてやわらかな、つめたい感触。(レモンと乳製品の甘さ。)
「は……」
「ごめんなさい」
 先輩は目をぱちぱちとさせた。雪は静かに舞っていた。彼女はなにが起こったのか理解していない。
「これって、不貞ですかね」
「えっと……」
「私も、反省します」

 先輩と別れてから徒歩十分の慣れた道のりを歩く。一歩ごとに雪が肩に積もり、足取りは重くなっていく。空のはずのリュックが身体にのしかかる。ああ、と思う。やはり私にレモン牛乳は必要だった。携帯が震えた。のぞみからのメッセージだった。「いま帰ったよ」。向かってるところ、と私は返す。その指が少し震えた。
 チャイムを鳴らせば、彼女はすぐに応答した。インターフォン越しに、「勝手に入ってきてよかったのに」と、のぞみの声。本当に彼女の言う通りだった。私の手元には合鍵があるし、実際、二週間前まではそのようにしていた。
 けれど、私はもはやお客さんだ。
 部屋の鍵は掛かっていなかった。ドアノブをひねって中に入る。洗面所からのぞみが顔を出した。
「いやあ、ごめん。本当に帰ってきたばかりで」
 その頬がお酒で赤い。
「ううん、こちらこそ」
「コーヒーのむ?」
「ありがとう」
「荷物、テーブルの横にまとまってるから」
 そしてキッチンに立つ彼女。私はその横を通り抜けて、居間に通じるドアを開ける。部屋はまだ肌寒い。点けられたばかりのエアコンがこんこんと暖かな風を送っている。私はいつものクッションに腰を下ろした。テレビもラジオも好まないのぞみの部屋は本当に静かだ。私が音楽を教えなかったら、彼女は一生音のない世界を生きることになったのではないか、なんて考えた。それも彼女の自然なのかもしれない。白い息がもこもこと形を変えるみたいに、私たちは日々流動する。あるいは光線が平行に走ったり、気まぐれに交差してみたり、そしてまた離れていったりするように。
 そうした営みのひとつの結果が、小さな木のテーブルの脇にまとめられていた。何着かの服、下着、靴下。化粧落とし。貸したことも忘れていた漫画、口内炎の薬……。
「歯ブラシは捨てちゃったんだけど、よかったよね」
 ミルクコーヒーの甘い匂いと共にのぞみがやってきた。私は頷く。「もちろん」。
 マグカップに口をつけてから荷物をリュックに詰めた。全部を終えてもリュックは軽かった。合鍵をのぞみに返した。つめたい金属。
「そういえば、来るときにのぞみと同じ身長の人を見かけたの」
 私の言葉に、のぞみはきょとんとする。「そんな人、いくらでもいるでしょ」
「眼鏡やコンタクトが、どういう原理で視力を矯正しているか知ってる?」
「理科の授業みたい。でも、知ってる。外から、無理やり光を曲げてるんだよね」
「そ。目のいい人は、ピント調節がちゃんとできるから問題ない。目の悪い人はそこがダメだから、道具で補償しないといけないの」
 のぞみは目がいい。彼女の水晶体は柔軟で、その目に入る光線は的確に網膜の上で交差する。一方の私はそうはいかない。コンタクトをつけたり外したりすれば、光の交差の仕方はがらりと変わる。見えていたものは曖昧に、見づらかったものは鮮明に。
 コーヒーを簡単に飲み干したのは私の最後の意地だった。ごちそうさま、そうしてリュックを片手に立ち上がる。のぞみは何か言いたげだったけれど、何も言わなかった。
 彼女は玄関先まで送ってくれた。靴を履いてしまう前に振り返る。なじんだ身長差。少しの背伸び、目をつむるタイミング——それらがあれば、簡単にキスできる。ちょうど三十分前にしたみたいに。
 私はそうしたい衝動に駆られた。のぞみは私の目を見て全てを察しただろう。彼女は右手をそっと差し出した。
「よいお年を」
「……うん、よいお年を」
 またね、と言おうとしたけれど、それはうまくいかなかった。

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