押しつぶす力

 噴水のへりに腰をかけて、私は長いこと人を待っていた。夜。駅前の広場は清潔で、こうこうと明るい。
 遠く、線路の果てに光がまたたいた。電車の、その流線型のフォルムが、冬の冷気のなかをすべって現れた。なめらかな減速と停止。人が降りて、そして乗り込んだ。電車は人々を連れ去っていった。その後ろ姿を見送って、まもなく、改札口は人でにぎわい始めた。私は駅から吐き出されるひとりひとりの顔を注視した。彼らの顔に表情はなかった。人々はちりぢりになった。そして再び、駅前は静かになる。待ち人はまだ来ない。私は寒さに震えながら、延々とこんなことを繰り返していた。

 そのうちに雨が降り出した。雫の細かな、冷たい雨だった。私は迷ったが、立ち上がった。すぐそこにカフェがあるのが見えた。ガラス越しに覗く店内はうす暗く、けれど照明はあたたかで安らいだ感じがした。
 私は店に入り、窓のそばの席についた。改札口の様子がうかがえる席だった。赤ワインをグラスで注文して、マフラーを解いた。店内は暖房がきいていた。
 客は少ないようだった。カウンター席に、男がひとり。奥まったテーブルの方に男女がひと組。二人の親しげな談笑が、絞ったボリュウムの音楽に混じってかすかに聞こえていた。

 注文したものはすぐにやってきた。私は一息で、飲みもののその半分を飲んだ。ワインではなかった。すこし生臭く、喉にねばっこく張りついた。もう一口、飲んでみた。知っている味のような気がした。
 ふと、笑い声を聞いた。奥の男女のものだ。ちらりと視線をやった。そして私は、そこにいる女性が私の待ち人であったことに気がついた。耳のそばの特徴的なほくろが、薄暗い店内でもはっきりと見てとれた。グラスが手からすべり落ちた。するどく空気が裂かれた。ふたりは驚いてこちらを振り返った。彼女のその驚いた顔は、けれど、私の待ち人のものとは似ても似つかなかった。ただの早とちりだった。
 液体が床を濡らし、そのぬらぬらとした反射が私を見ていた。私は席を立った。
 
 雨脚は弱まりはじめていた。帰ろう、と思った。何でこんなに寒い思いまでして、みじめな思いまでして、彼女を待っていなくちゃいけないんだろう。けれど私には一方で別の考えもあった。もし入れ違いで彼女がここにやってきたら、私は彼女に会うチャンスを逃すことになる。耐えられない、と思った。押しつぶされる思いがした。

 あの、と声をかけられた。振り返ると、さっきのカフェにいた女性だった。
「これ、よかったら」
 ビニル傘が差し出された。私はその人の顔をよく観察した。さっきは、早とちりと結論したけれど、見ればみるほど、分からなくなった。私の待ち人のようにも見えるし、まったくの別人のようにも思えた。私はくらくらしはじめていた。さっきのワイン——ワインでない、なにかの酔いが回りだしたのだ。
 私は傘を受け取った。声。声はやや、私の待ち人のものよりも、低く聞こえる気がする。肩幅、体型、服装のチョイス。それらも期待するものと異なるようでいて、けれど私は確証を持てなかった。「ありがとうございます」
 それじゃあ、と女性はきびすを返した。思わず、呼び止めた。女性は私を不審そうに振り返った。
「あの、名前。教えてください、傘を返すのに」
 言葉はまごついた。彼女はくすりと笑った。「傘は差し上げますよ。名前は、キシダです」
 そして去っていった。

 私は、とりあえず傘だけを差して、あとはその場にたたずむばかりだった。
 機械的な周期で、電車が到着し、そして出発していった。人は駅から吐き出され、そして消えていった。

 雨がやんだ。カフェが閉店した。その頃には電車の往来も絶え、駅の入り口は閉まっていた。あたりはすっかりの暗闇だった。
 カフェから、例の男女が出てきた。私は弾かれたように我に返った。ふたりは腕を組んで歩きだしていた。駅から離れる方向だ。私はそっとその後をつけた。
 大通り沿いにしばらく歩いて、コンビニの角で細い路地へ入った。冬の夜が辺りをぽっかり飲み込んで、ふと、見あげた夜空に、星がちらついた。足音とぼそぼそ交わされる言葉。途中、自動販売機で立ちどまり、サイダーを買った。

 そして四階建てのマンションにたどり着いた。ふたりはその中に消えていった。少し遅れてエントランスに足を踏み入れた。エレベーターは最上階で停まっていた。私は階段でそこまで昇った。
 部屋番号は分かっていた。403。私はドアの前に立った。そこに耳をぴったりくっつけた。

「ねぇ、それから、踏み潰すとどうなるか知っている?」
 私は、知らない、と答えた。彼女は嬉しそうにくすくすと笑った。
「まず、皮のやわらかな弾力。そのまま力を加えていくと、そこに肉と内臓の、はねかえす力が加わってくるの。私の足に抗おうとするみたいに。けれどそれも、途中まで。ばねと同じこと。分かる?
 ばねを縮めると、はじめ、ゆるやかな抗力を発揮する。さらに縮めていくと、それに比例して大きな力で押し返してくる。けれど、それもいつまでも続くわけじゃない。あるところで弾性限界に達する。それと同じ。押し返せない力はその内部に作用を及ぼすようになる。内圧は高まって、そして起こるのが、組織の損傷と断裂。そのまま緩めなければ、そして運がよければ、皮が破裂して、その中身が飛び出すところまで見られるかもしれない。
 ねぇ、どう?」

 朝が来た。私はビニル傘を置いて、その場を離れた。


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