ショートケーキの夜

 ショートケーキが上空で爆発した夜、私は例の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。その日は一日中を家のなかで過ごそうと、そう決めていたのに、陽暮れのころ、ふっと窓の向こうに、東の空を泥棒みたいに抜足差足で覆っていく深い紺を見た。それは私の胸をつめたくした。なんだかしゅんとして、呼吸が頼りないようで、温かなコーヒーがぜひ必要だと思った。それで、簡単な身支度のあとで華子の喫茶店に顔を出した。扉をくぐれば、夜に順応した人たちの会話と煙草がせまい店内いっぱいに香り、華子はてんてこまいのようだった。
「いいご身分なことで」
 私にコーヒーを持ってきたとき、彼女はさらりと、そんな毒を吐いた。なめらかなターコイズのマグカップ、煙を吸って色の濃いテーブルの木目。疲労を隠せない爪はなにかを訴えるみたいに私の、手の甲をひっかいた。私は本を閉じた。華子がため息のひとつもつかないのを褒めて、彼女の労苦をねぎらってやりたいと思った。けれど、いくらかの考え事のすえに、それはやっぱりやめた。
「チョコレートケーキも追加で」
 華子は、はいはい、と気のない返事をよこした。
 ショートケーキが爆発したのはそのときだった。それは空の高いところで、音もなく、やわらかに破裂した。秩序だった一つの物体がクリームとスポンジと酸味の果物に分かれ、千々にちぎれる。軽いホイップクリームは空気をさらに含んで、花の咲くようにして上空にふわりと舞い上がった。スポンジはしなやかに衝撃を吸収し、クリームほどは簡単には吹き飛ばない。赤い果実は、みずみずしく弾けて、またたきの一瞬、空を自身の色でつらぬいた。それはわずかな時間だけ星の色を変えた。私はそれをちゃんと見ていた。
「おなかがすいた」 
 窓の外では、細やかなホイップクリームが街に降りはじめていた。おもてを見つめる華子の横顔はまるで小さな子供のようだった。所在のない、行き場のない、迷子の子供。なにか、確かな救いがやってくるのを、一途に待ち望む信心のような。
「今に待っていれば、酸っぱいイチゴがふってくるはずだよ」
「私もチョコケーキの気分なの」
 まぁでもいいわ。華子は言った。チョコレートとイチゴって、相性がいいもんね。
 十分後に運ばれてきたケーキはちょうど二口ぶん失われた、いびつな形をしていた。私は華子の口元を見逃さなかった。
「コーヒーも飲んだら」
「ありがと」
 私の提案に軽々とカップを持ち上げて、口をつける。今やおもては赤い雪がちらついていた。
 その夜、世の人たちは降りそそぐ光景の奇妙さに肩をすくめるばかりだったようだけど、話は簡単で、要は、ショートケーキが爆発しただけのことなのだ。たぶん、私と華子だけがそれに気がついていた。煙とコーヒーの、暖かな店内で。夜に取り残されてしまわないように。

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最近出番の多いふたり。

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