くすり(ひとつの救い)

「死は正しい」。
 買い物から戻ったらそんなメモ書きがテーブルにうちおかれていた。セロクエルとハルシオンの処方箋のうらがわ、黒のボールペンで几帳面な字体。
「なにこれ」
 手にとって亜紗子に尋ねるけれど、彼女は知らないとかぶりを振る。背の低いソファにぐったりもたれて、床の一点を睨みつけるようにしながら。なにかあるのかしら、とその視線を追ったけれど、そこにはなにもいないようだった。
「恭子さんが置いていったの」
 亜紗子はぽつりと呟いた。
「ふらっとやってきて、すぐに帰っちゃったの」
「そう」
 私は買い物袋をテーブルに上げた。一週間分の食料でぱんぱんに膨れたそれは大変に重たい。
「なにか言っていた?」
「なにも」
 オレンジ、ヨーグルト、キットカット——。私はそれらをテーブルに広げる。
 あ、でも、と亜紗子は言葉を継いだ。
「ずうっと、なにかぶつぶつ、ひとりでぼやいてた。失敗した、とか、私のせいだ、とか。たぶん、俊之さんのことだと思う。かわいそうにね。もう死んじゃったのに」
 それを、受け入れられないのだわ。やっぱり視線を固定したままで、かわいそう、と繰り返した。
 私は部屋の窓を開けた。ふわりと梅が香る。私の出かけている間に、その窓の開けられた形跡はないようだった。テーブルでは水滴の残るガラスコップが光をはねる。ゴミ箱を覗けばまだ新しいバナナの皮。飛び降り死体のように四肢をおかしな方向に曲げて、ぐったり動かない。
「ちゃんと薬を飲んだのね」
「でもね、なにか忘れ物をしたみたいでね、ついさっき戻ってきたの」
 いま亜紗子は私を見ていた。私の肩口——その向こうがわ。つめたい気配にふりかえる。
 そこにはなにもいないようだった。廊下に通じるドアが開け放しで、窓からの空気が通ったのだと理解した。
 玄関に通じるその向こうはひどく暗い。
「——ね、亜紗子、外に出てみない? 今日はずいぶん春らしい空なのよ」
「私、いいわ」
 亜紗子は私から、私の顎のあたりから、目を離さない。「梅のにおいって、なにか苦手なの。だから春はきらい。ぼうっとして、むわっとして。なにか良くないものでも視えてしまいそうになる」
「そうね」
 じゃ、帰るわねと背を向けたところで、ねぇ待ってと声が追いかけてくる。
「俊之さんって何階に住んでるんだっけ?」
「……7階だったと思う。701号室」
「ありがとう」
 殺しに行かなくちゃ。
 亜紗子がちいさく呟いたのを私は確かに聞いた。部屋に風が吹きこんで、鼻の先を春がくすぐった。蠱惑的で、深い穴を静かに覗き込むような、そんなにおい。
 私も梅はきらい。それは余計なことを、いろいろ、思い出させる。

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