半分

「ごめんなさい」
 唇を離して、そう謝った佐倉ちゃんを思い出す。私はたぶん馬鹿みたいに呆けた顔で、何にも言えないで、そんな私に、彼女は唇をねじまげた、微笑のようなものを投げかけた。
「これって、不貞ですかね」
「えっと……」
「私も、反省します」
 私はくらくらするばかりだった。いまになって酔いがまわったのかしら——確かに、私は、酔っていた。けれどそれだけじゃない。私は彼女の唇のやわらかさでぶん殴られた。容赦のない不意打ちのアッパーみたいに。口のなかには鉄の味の代わりに、レモンと牛乳の混じりあった、妙な甘さばかりが広がっていた。
 それじゃあ、と去っていく佐倉ちゃんに、私は、彼女を呼び止めることもできず、なにか気の利いたことを言うこともできず、うん、とか、また、とか意味の成さないことを口走ったと思う。彼女の背中はすぐに、人混みのなかに紛れてしまった。雪の静かに舞う夜で、私は身体がすっかり冷えきってしまうまで、そこに立ち尽くして、信号の点滅を、くりかえしくりかえし、うつろな目の端でぼうっと捉えていた。
 それだけで、精一杯だった。

   *

「馬鹿ねぇ」岩本はビールをあおる。「それ以外の何を、キスと呼べば?」
 でもさぁ、と反論しかけたところで私は口を閉ざす。店員がほっけの塩焼きを運んできたところだった。岩本は皿を受け取ると、てきぱき、大根おろしに醤油をたらして柑橘を搾る。背骨をぺりぺりと剥がしとって——そうした作業をしながら、
「せっかく久しぶりにカウントが増えたっていうのに——本当に久しぶりよ。それなのに、あんたが自信を持たないで、一体どうするの」
 0.5なんて訳のわからない、と、ぐちぐち。店内の喧騒と笑い声。
「とにかく」私の目は岩本の手元を映していた。「……向こうは心ここにあらず、というか、そんな感じだったのよ」
 箸先は器用に、白身と小骨を分けていく。
「あんたにそう見えただけじゃない? どうせ飲んだ帰りでしょ?」
「うっさいやい」
 岩本はけらけら笑った。
 二ヶ月ぶりの定例会で、私たちは駅近くの居酒屋にいた。狭苦しい階段を降りた先の、地階にあるお店で、しょぼくれた入り口に反してなかは案外広い。禁煙だとか分煙だとか、そうした現代的配慮とは無縁で、はじめはもくもくのたばこの匂いに顔をしかめても見せたけれど、数分もすればそれも忘れて、そういえば同窓会のお店もたばこくさかったなぁ、とそんなことを考えていた。彼女とはそこで懇意になったのだ。
 高三のころ同じクラスだったくせに、それまでろくに言葉も交わしたこともなく、あのグループのあの子ね、程度の認識だったのが、あの日を境に一気に改まった。話は簡単で、要は、喋ってみたらいいやつだった、というだけのことだ。その晩、私たちは変に意気投合して、三次会か何かでちょっと気取ったバーなんて行って、けれどお酒の名前なんて、ぜんぜん、分からないから、とりあえず白ワインをグラスで頼んで、その一杯だけでお互いのことを何でも打ちあけた。
 消化した恋の数、経験人数とその時期、一番「サイテー」だったやつの話。ひそひそだったり、げらげらだったり、私たちは忙しかった。忙しくて、そして身体にすっと浸透していくような夜だった。散々しゃべって、それなのに一切の疲れなんて感じないで、駅前で別れた私たちは、かえってその日の始まりよりもずっと元気なくらいだった。骨が太くなって血肉も増えて、しっかりと地面を捉えて立っているような錯覚。岩本も、たぶん似たような感想を持っていたと思う。
「また会いましょう」
 と、どちらともなく、自然とそういう約束を結んだ。
「社交辞令とか、そういうのじゃないから」
「うん、もちろん」
 そうして駅前には快い風がふいていた。
 それ以来、私たちは定例会と称して時折お酒を挟んでは、なんでも話し合った。カウントというのも、その「なんでも」の一環で、前回から今回までのあいだの、キスとセックスの回数を合計したものを、お互いに伝え合う遊びなのだった。
 なんて悪趣味なんだろう、と思う。考案したのは、たぶん岩本のほうだったと思う。悪趣味で、けれどある一面では、端的で、合理的なコミュニケーションでもあった。彼女の方にはしばらく決まったパートナーがいたので、安定したスコアを出していたのが、ときどき妙に少なかったりすると、忙しかったのか、あるいはケンカが長引いているのか、なんて憶測を飛ばす。破局や新しい恋の訪れにも、数字は敏感だった。一方の私はからっきしで、ちょっと数字が回れば岩本は大喜びだった。
 そこに、今回の0.5だ。
 はじめ岩本は、「未遂」だと思ったのだそうだ。けれど、それにしては、キスのひとつもないのは不誠実だわ、と私たちは笑った。
「完全に0にできないところが、あんたのいじらしいところよね」
 岩本が梅酒を傾けてそんなことを言ったのを、私はチャンジャをつっつきながら聞いていた。テレビからのぼんやりの色彩。
「……最近、昔のことばっかり思い出すの」
「例えば?」
「例えば、私は軽音部だったなぁ、とか」
「そうだったの? 演奏してるところ、一度も見たことなかったけど」
「幽霊部員だったから」私は続ける。「それから、カレイとヒラメの区別がつかなかった——今でもちょっと、怪しいかもしれないけど。それで、最初にその二つの違いに気がついた人はすごい、って、本気で感動してた」
 あの頃、廊下で偶然すれ違った佐倉ちゃんに、私は興奮ぎみにそんな話をしたのだった。カレイとヒラメの区別をつけた人はすごい、私も将来はそんな風に、よく似たなにかの判別法を編み出す人になりたい、とか何とか。
 すると、佐倉ちゃんは真剣な顔でうなずいて、
「確かにすごいですよね。私、レタスとキャベツの違いも分かりませんもの」
「いやぁ……それはさすがに分かるんじゃないかな」
「でも、それじゃあ、先輩はいつからその区別がつくようになったんですか?」
「いつ、とか、覚えてないけど……」
 そんなやり取りがあった。
 岩本が話半分に聞いてるのが分かったので、私は彼女のつま先を思いきり蹴り上げた。「ねぇ、聞いてんの?」
「いったいなぁ、聞いてる聞いてる」
「ほんとかよ」
「ほんとほんと」
 店を出て狭苦しい階段を戻れば、夜空には十日夜の月が出ていた。
 別れ際、改札の前で、岩本は改まったみたいに咳払いをした。
「それじゃあ、愚鈍な田中の恋が、次回までに一歩でも進んでいることを祈るよ」
「恋だなんてひとことも言ってないのだけど」
「次には2くらいまで行っていると良いねぇ」
「話を聞け」
 私はあの晩の後でメガネを作り直した。いつの間にか近眼が進んでいたそうで、レンズをまた厚くして、作り直した。そうして見える景色は、これまでのものから一新されたはずだったけれど、私は変わらず、あの雪の夜に、あの唇のつめたさにピン留めされている——それを、認めなくちゃいけない。0カウントにできなかった私。半分のキス、あるいは半分の感情。
 いいわ、と、岩本の背中を見送りながら思う。これはあれだ、カレイ・ヒラメ問題に似ている。私はそれらに蹴りをつける。そういう大人になりたいって、高校生のころ、純真さのすべてを懸けてそう信じていたように。
 駅舎の窓の向こう側の夜。
 十日夜の月は半月から少し膨らんで、満月を待ちわびる月である。

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拙作「交差」のつづき。なんかまだつづきそうですね。
そして長い。

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