煙草と赤い糸

 寝息が聞こえている。いつも通りの、規則正しい寝息だ。
 私はそれによって、先輩がすっかり眠ってしまったのを知る。目を横に向けると、薄暗い部屋のなか、先輩の寝顔が見える。いつも通りの、穏やかな寝顔だ。私は彼女を起こさないよう、こっそりとベッドから抜け出した。部屋の灯りは消されていたが、カーテンの隙間から射し込む月明かりで、部屋全体がうっすら照らされていた。私は僅かな肌寒さを覚えて、床に放られていた先輩のブラウスを手に取る。
 情事のあとは、いつだって寂しくなる。私はそのブラウスに顔を埋める。先輩の匂いが鼻孔をくすぐる。甘い香りで、頭が痺れる。
 私はブラウスを上半身に羽織る。掛け時計は零時すぎを示している。小腹が空いていた。しかし、欲望に負けるわけにはいかない。ここで何かをお腹のなかに入れてしまえば、後に体重計と格闘しなければならない。
 部屋の中央のテーブル。その上に煙草の箱とライターが置いてある。私はそこに座り込んで、それらを手にした。箱の中から、煙草を一本だけ取り出す。端を口にくわえ、他方の端にライターで火を灯す。一瞬だけ、部屋が暖色に照らされる。そして息を吸い込んで、私は思い切りむせかえる。喉の辺りが燃えるように熱くなる。煙草を口から離して、私はむせた。ひどくむせかえった。途中で吐き気さえ覚えるほどだった。
 ようやく落ち着いて、目にたまった涙を拭ったときには、煙草はいくぶんか短くなっていた。私は大きく息を吐き出して、視線をベッドに向ける。先輩は起きるそぶりを見せない。月明かりが、彼女の肌色を艶かしく映し出していた。私は安堵する。
 どうしたって先輩は、こんなものを美味しそうにスパスパスパと吸えるのだろう——私は手元の煙草に目をやる。それとも先輩も初めて吸ったときには、今の私と同じように、涙ぐむまでむせかえったのだろうか。私は煙草を口元に持っていく。口をつけて、離して、息を吸い込む。煙が気道を通って、肺に入っていく。そこで私は再びむせかえる。しかし、さっきよりは少しはましだった。
 私はどうして煙草なんて吸っているのだろうか、と考える。ほとんど衝動的にやってしまったものだから、理由を探るためには、私の深層心理を分析する必要がありそうだ。私は煙草を見つめる。先端が、ちりちりと燃えている。



 いつだったか、とある冬の日に、私は先輩とどこかの喫茶店へ出かけた。先輩が連れて行ってくれたのだ。珈琲専門店と銘打ったその店は、なかなか私好みだった。店内では、クリフォード・ブラウンが流れていた。
 席につくなり、先輩は楽しそうに口を開くのだった。
「どう? なかなかいいお店でしょ」
 私はこっくりと頷く。この人は、私の嗜好を少しは把握しているのだった。
 先輩と私は、どちらもブレンドを注文した。先輩はそれに加えて、サンドイッチも注文していた。ここのコーヒー、美味しいんだよ。先輩はそう言った。彼女は 何度もここへやってきているらしかった。
 まもなくやってきたブレンドは、本当に美味しかった。コーヒーに詳しくない私でも、感動を覚えてしまうほどだった。先輩は私の反応に満足しながら、運ばれ てきたサンドイッチを食べていた。
「もう冬ですね」
 コーヒーが半分くらいになったところで、私は言った。先輩は店内に視線を走らせて、そうだねと頷く。店のなかには、私たちの他にカップルが二組いるだけだった。私は、さっきまで歩いていた街の大通りの様子を思い出す。腕を組んで歩くカップル、仲の良さそうな家族、街は彩られて、弾んでいた。
「クリスマスシーズンですもんね」
 皆が浮かれ気分になるのは、仕方のないことなのだ。
 先輩はコーヒーを一口飲んで、それから、
「寂しい?」
 そう尋ねてきた。サンドイッチは、いつのまにか平らげられていた。
 先輩の問いかけは、おかしなものだった。私は笑って、それは先輩もでしょ、と訊きかえす。すると先輩も笑って、そうだねと言うのだった。
「でも不思議なのは、さ」先輩は続ける。「どうして私たち、こんなに寂しいんだろうね」
 道行くカップルは、少しだって寂しそうではなかった。私たちは彼らと同じようにパートナーがいるというのに、どうして私たちばかりが寂しさを感じるのだろうか。先輩はコーヒーをすすりながら、そんな疑問を提示する。
「どうしてですかねえ」
 私は問いの答を考えながら、先輩のことを見つめていた。先輩は、窓の外を見ている。浮かれた、街の姿を。短めの黒髪、綺麗な横顔。先輩は私の視線に気づくと、唇の端を持ち上げた。きっと先輩も、答えが分かっているのだ。それをあえて、私に言わせようとしているのだ。本当に、意地悪な人だ。
 私は先輩と違って、心優しい素直な人間なので、先輩の望むように動いてやる。
「それはきっと、」
先輩は興味深そうに私を見つめている。
「私たちが、一緒にいるべきじゃない、から」
 私の言葉に先輩は目を丸くした。それから関心したように、へえと声を漏らした。
「なるほどねぇ。一緒にいるべきじゃないのに無理に一緒にいるから、お互いに寂しいしつまらないってわけ」
「……先輩だって、そう思ってるんでしょう」
「……分かっちゃうか」
 そう言って先輩は笑みを浮かべた。どことなく楽しそうだった。
「どこかに、私にふさわしい相手がいるんだろうね」
「そうでしょうね、きっと私にも」
「私じゃない誰かが、きっとね」
「運命の相手ってやつですね」
「そう。赤い糸で結ばれてるんだよ、きっと」
「赤い糸ですか……」
 ずいぶんとメルヘンな話をもってくるものだ。先輩の口からそんな単語が出てくるなんて、少し意外だった。
「でも、君の赤い糸は途中で切れてるかもね」
 先輩は笑いながらそう言った。ひどい言い草だ。先輩はコーヒーカップを片手に、言葉を続ける。
「きっと、私のも途中で切れてるよ。誰ともつながってないの」
「どうしてそう思うんですか」
「だって、それっぽい人が全然現れないんだもん」
 それは、私も同じだ。先輩はカップに口をつけて、コーヒーを飲み干す。私は、既に飲み終えてしまっていた。少しの間ジャズに耳を傾けていた私たちは、まもなく店を出た。冬の空気は冷たくて、楽しげだった。



 煙が目にしみる。いくらか要領をつかみ始めたころには、煙草は短くなっていた。
 あの日、先輩は言っていた。「私たちは本質的にひとりぼっちなんだよ」。私はこの言葉を密かに気に入っていた。本質的に、なんていう大仰な言い方が皮肉っぽくて好きなのだ。ここで言う「私たち」というのが、私と先輩のことを指すのか、それとも人類全体のことを指すのか、私には分からなかった。
 もぞもぞと、ベッドの上の先輩が動く。寝返りでも打つのだろうかと思っていると、むくりと彼女は体を起こしたのだった。しばらく静止し、それから部屋のなかをきょろきょろと見渡す。
「……ごめんね、寝ちゃってた」
 ねぼけた声で先輩はそう言った。良いんですよ、寝ててください。私はそう言ったが、先輩はそれを無視してベッドを抜け出した。寒い寒いと言いながら、キッチンまで行ってコンロに火をかける。コーヒーを飲む気だな、と思っていると、案の定彼女はコーヒーの支度を始めた(とはいってもインスタントだ)。お湯の沸くのを、先輩はコンロの前で待っている。そこで彼女は私に目をやって、
「こら。勝手に吸っちゃだめでしょ」
 煙草について指摘をするのだった。私はテーブルの上の灰皿で、煙草の火を消す。先輩はため息をつくと、まだ君は未成年なんだから、などと呟いた。
「だったら、お酒を飲ますのもどうかと思いますよ」
「それは……」
 先輩は何か言いたげだったが、結局は何も言わずに口を閉じた。私はその様子ににんまりとする。
 お湯が沸いた。先輩はカップに熱湯を注いで、そこにインスタントコーヒーの粉末を投入する。その作業をしながら、先輩は口を開いたのだった
「私ね、いろいろ考えてるんだ」
「いろいろ、ですか」
「そう。いろいろ」
 先輩はスプーンでカップの中をかきまぜる。コーヒーの匂いが、私のところまで漂ってくる。できあがったコーヒーを持って、先輩はリビングまでやってきた。
 そして、私の隣に腰を下ろす。部屋のなかは、暗いままだ。
「例えばね、賞味期限が昨日までの牛乳とか」
「飲みきってくださいって、私言いましたよね」
「あと、明日が締め切りのレポートのこととか」
「終わりそうなんですか?」
「まだ一行も書いてない」
「何やってるんですか……」
 先輩はコーヒーをすする。私は灰皿のなかの煙草を見つめている。
「それとね、私たちの関係のこととか」
「……そうですか」
「一緒にいるのに寂しいって、この前話したよね」
 私は頷く。先輩は私のほうを見ながら、ゆっくりと続ける。
「その理由、私なりに考えたんだ。きっと、始まり方に問題があったんだよ。つまりね……あの、多分、」
 珍しく先輩が言いよどむ。先輩を見ると、彼女は申し訳なさそうに言うのだった。
「……私が無理に連れ込んだから、だと思う」
「……まあ、あの時は私も酔ってましたから」
 だから「無理に」というのは少し違う。
「だいたい、なんで私だったんですか」
「……その、」先輩は俯く。「……可愛かった、から。私好みだったんだよ」
 薄暗いせいで、先輩の表情は分からなかった。私はテーブルに置かれたカップをとって、まだ熱いコーヒーを少し頂いた。しばし、部屋に沈黙が流れる。
 月明かりは変わらず、部屋に射し込んでいる。
「……ABCのCから始まっちゃったから、おかしなことになってるんだよ、私たち」
「そうかもしれませんね」
 彼女の言うことは一理あった。オーダーが狂ってしまえば、いろいろと支障が出るのは頷ける。
 私は先輩を見やる。彼女は俯いたままだった。
「それで、先輩はどうしたいんですか」
「……君は?」
 聞き返すなんて、先輩は本当に意地悪な人だ。
「先輩に任せます」
 だから、私も少しだけ意地悪をしてみるのだ。私の言葉に先輩は顔をあげて、なにそれと呟いた。
「そのままの意味ですよ」
「君は、どうしたいとかこうしたいとか、無いの?」
「先輩に任せますって、言ってるじゃないですか」
 先輩は盛大にため息をついた。
「……私に似てきたね」
「そうですか?」
「うん」
 先輩はカップに口をつける。間接キスだけれど、いまさら気にしない。先輩はそのまま温くなったコーヒーを飲み干すと、自身の右手を見た。
「……切れた赤い糸は、結んだら良いと思うんだ」
「はあ」
「私の赤い糸も、君の赤い糸も、どっちも途中で切れちゃってるけど……切れてるところ同士を結んであげれば」
先輩は私に目を向ける。少しだけ、微笑んでいる。私は自分の左手を見る。その小指から、目に見えない赤い糸が伸びているのかもしれない。
「私と君は、めでたく結ばれるわけ」
「先輩が、私の運命の相手になるんですね」
「そう。どうかな」
「良いと思いますよ、すごく」
 私がそう言うと、先輩は安堵したように笑った。
「君と、一から始めたい。一から始めて、ちゃんと順を追って、一緒にいたい」
「そうですね。それなら、先輩からどうぞ」
 私の言葉に、先輩はきょとんとする。物わかりの悪い人だ。
「一から、始めるんでしょう?」
 そこで先輩は気づいたようで、ごめんごめんと笑った。
 先輩が私に向き直る。私もきちんと座り直す。顔を上げると先輩と目があう。彼女は少しだけ緊張しているようだった。それが伝わって、私まで緊張してくる。
 先輩が息を吸った。
「私はね——君のことが、好き」
 胸が、どきりと鳴る。思い返してみれば、先輩に好きと言われたのは、これが初めてなのかもしれない。私は笑い出したくなる。好き、という言葉を交わさない で、どうして恋人でいられるだろうか。私たちは、滑稽な恋人ごっこをしていたに過ぎなかったのだ。
 私は、笑顔で初めての告白をするのだった。
「私も、先輩のことが大好きですっ」
 視線が合わさって、私たちは自然と笑い出す。あははと笑いあって、それからぎゅうと抱きしめあった。先輩の体温を感じる。髪の毛のいい匂いと、煙草とコーヒーの混ざった匂い。こうして抱き合っていると、心の中で満たされるものがある。
 もう、寂しくなんてないのだ。
「ねえ——」
 先輩が甘えるような声を出す。何がしたいのか、私にはすぐ分かる。私は目をつむる。先輩の手が私の肩におかれる。
「これが初めてのキスだからね」
 先輩の言葉。新しい関係を結んだ私たちの、記念すべきファーストキスだ。 唇に柔らかな感触。唇を重ねるだけの、やさしいキス——。
「……煙草の味がする」
 目を開けた私に、先輩はそう言った。
「いつものお返しです」
「だいたい、なんで煙草を吸おうと思ったの」
「先輩のこと、もっと知りたいんですよ」
 私の言葉に先輩は少しだけ笑った。
「……そうだね、私も君のこと、もっと知りたい」
「これから少しずつ、進んでいきましょう。まだ始まったばかりなんですから」
 私は先輩の肩に、頭を預ける。先輩が、私の左手を握ってくれる。カーテンの隙間から、柔らかい月あかりが射し込んでいる。

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