救い

 こっそりと家を出る。静かに玄関のドアを開けて、身を隙間に滑り込ませて、それからドアを閉めて、音を立てないよう鍵をかける。時刻は零時をまわっていて、家族の者は皆寝静まっていた。私は外階段を使って、一階まで降りる。それからエントランスを通り抜けて、マンションから出た。外気はひんやりと冷たくて、寝ぼけていた肌の目覚めていくのを感じた。私は大きく息を吸い込んで、それから歩き出す。夜の空気は、おいしかった。
 待ち合わせの場所は、近所のコンビ二だった。私はゆっくりと歩みを進める。先ほどまで雨が降っていたと見えて、道路のところどころには水たまりができていた。どうりで、空気の瑞々しいわけである。暗い路地から大通りに出る。ここまで来ると、もう夜遅いというのに車の往来は随分と多い。そうした車のライトや街灯のおかげで、通りはにぎやかだった。件のコンビニは、道路をはさんだ向かい側にあった。私は信号の変わるのを待って、横断歩道を渡った。
 恭子さんは、もうコンビニに来ていた。彼女は店内でなにかの雑誌を読んでいたが、ガラス越しに私の姿に気づくと、笑みを浮かべて小さく手を振った。茶色の髪はふわふわで、恭子さんは今日も綺麗だった。
「お待たせしました」
 コンビニから出てきた恭子さんに、私はそう声をかける。彼女は頭を振って、そんなに待っていないから大丈夫よ、と言った。それじゃあ行きましょうか、と続 けて、恭子さんは私の手を握る。私も恭子さんの手を軽く握り返し、私たちは並んで歩き出す。
 恭子さんは社会人で、彼女の仕事が終わった後に私たちはよくこうして逢っていた。恭子さんの住まいはまだ何駅分か離れたところなのだが、彼女は仕事がえりにわざわざ途中で降りて、私に逢ってくれているのだ。なんだか申し訳ない気もするのだが、休日は私が恭子さんの家まで遊びにいっているので、手間は同じくらいよ、というのが恭子さんの主張だった。
 私たちはいつものように、静かな夜道を歩く。零時を回ると、人の影はほとんど見られない。車の行き来があるとは言うが、それもぱったり途絶えてしまうと人の気配を感じさせるものが何もないので、私はまるで二人きりの世界に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥る。それはもちろん想像上のことだと弁えている が、本当にそうなってしまえばいいのに、と最近はよく考えていた。
「すっかり秋ね」
 恭子さんが言った。どこかで秋の虫が、りんりんとか細く鳴いていた。空の高いところにはぽっかりと光を失った月が浮かんでいて、その姿を時折雲が隠したりした。
「今度、さんま焼いてあげます」
 私が言うと、恭子さんは「本当に?」と言って、嬉しそうにしていた。恭子さんはさんまの塩焼きと麦酒が大好きだった。しかし恭子さんはあまり料理の上手な人ではないので、彼女がさんまを食べられるのは、居酒屋に行ったときか、私が彼女の家に遊びにいったときかのどちらかだった(もっともさんまの塩焼きくら いならスーパーマーケットでも売っているのだが、あまり恭子さんの好みには合わないらしい)。
 私たちの前を、野良猫がゆっくりと通り過ぎる。
 歩きながら、恭子さんは仕事の話をしてくれた。最近は立て込んでて忙しいとか、取引先の人のおかしな癖とか、同じ職場の人のことについて、色々と教えて くれる。それらは一つ一つがとても興味深くて、私は何度も頷くながらその話を聞く。恭子さんもそんな私の反応に気をよくしているようで、稀に見る饒舌ぶりを発揮するのだった。
 私はそのお返しに、なにかお話をしてみようかと思った。しかし考えてみても、私には何も話題がなかったのだった。私の生活はおおよそ大学での時間で構成されているが、その大学での話をする気には到底なれなかった。私は何も言わないままで、恭子さんの手の温かさを確かめながらゆっくりと歩いた。
 恭子さんは、器用に生きている思う。料理は下手で掃除もできない人だけれど、生き方はとてもスマートで、格好がいい。それに対して私は、あまり上手な生き方をしていないように思えるのだった。どんくさくて格好が悪くて、とても弱々しい。自分がちっぽけな存在に感じられる。私にこんな風に思わしめるのは、 大学での生活に他ならなかった。
 もちろん大学に入った始めの頃は、私にも夢や希望と思われるものがあり、そのことについて恭子さんにもいくらか語ったことがあった。その時分ではまだ、 キャンパスライフは私の目に眩しいものとして映っていた。しかし、私はある時気がついたのである。大学とは若い人ためにあるものだ、と。私だってもちろん若いけれど、それにしては若者特有の情熱が、私からはすっぽり抜け落ちているのだった。大学で見かける人は、みな生き生きとしていた。サークルの友人も、 講義で見かける知り合いも、みな何かに楽しみを見いだして、きらきらとしていた。それに比べると、私には何もないのだった。心を躍らせる興味も、時間を忘 れて熱中するほどの趣味も、何も持ち合わせていなかった。入学当初に抱いていた夢や希望のがらくたみたいなものは、所詮は夢物語であり、実現など少しも考 えられなかった。そして私には、それを叶えようと努力する情熱が、少しだってなかったのであった。私はそんな自分を、情けなく矮小な者であると自覚して、 ただ毎日を、その二十四時間をだらだらと消費しながら生きているのだった。こんな私はとてもみすぼらしくて、情けなくて、そんな話を恭子さんに聞かせる気 にはなれなかった。
「私と、恭子さんだけの世界になったらいいのに」
 私はそう言ってみた。恭子さんは小さく笑って、そうね、と言った。私は恭子さんの手を握る力を、少し強める。
「毎日、さんまの塩焼きつくってあげます」
「それは楽しみね」
「毎日、晩酌にもつきあってあげます」
「でも、あなたお酒弱いじゃない」
「弱くても、です」
 恭子さんは楽しそうに笑った。しかし、こんなことを言ったってどうしようもないのだ。二人きりの世界が実現するわけもなく、現実は少しは揺るがない。どしんとそこに居座って、私のことを冷たい目で見下ろしているのである。私は自然と歩みが重くなる。歩幅はだんだんと小さくなって、やがて私はぱったり立ち止まってしまった。恭子さんはそんな私に驚いて、心配そうに私を覗き込んできた。大丈夫、とその綺麗な唇が動く。彼女の瞳は夜闇よりも深い黒で、私の気持ちも見透かされているような気がした。
「悩み、かしら」
「……そんなところです」
「考えすぎないことよ」恭子さんの口調は軽やかだ。彼女の言葉を聞くと、私の悩みが不思議と些細なものに思えてくる。
 それに、と恭子さんは続ける。
「あなたには私がいるじゃない」
 それだけじゃ足りないかしら、と聞かれて、私は首を横に振る。恭子さんさえいれば、何もかも充分なように思えた。興味の対象も、情熱の矛先も、もう見つからなくてもいい。器用な生き方などできなくてもいい。ただ恭子さんが私の傍にいてくれるというなら、何もいらない、と本気で考えた。
 私たちはそれから、ゆっくりと夜の散歩を続けた。ぐるりと回って、はじめのコンビニまで戻ってくる。恭子さんはこれから電車に乗る。もう遅いので、たぶ ん最終の電車になるのだろう。私は駅まで恭子さんに着いていった。駅には誰もいなかった。
「今週のお休み、また遊びに来て」恭子さんが言う。「あなたが来ないと、部屋が散らかってしょうがないわ」
「恭子さんは、少し片付けを覚えたほうがいいと思います」
「仕事が忙しいの」
 私たちはくすくすと笑った。そして人目を忍ぶようにして、私たちは口づけを交わす。キスはいつも甘やかで、私をとろけさせる。
「私、恭子さんに会えてよかったです」
 別れ際にそう伝えた。恭子さんは嬉しそうに笑って、私も、と言ってくれた。まもなく電車がやってきて、恭子さんはそれに乗り込んだ。
 電車の行ってしまうのを見送って、私は帰路につく。月は先ほどよりも高い位置にあって、優しい表情を見せている。星は点滅しながらそこにあって、私は満ち足りた気分になった。静かな路地に入り込み、私の住むマンションに着く。エントランスを抜けて、エレベーターで三階まで上る。
 私は指先で唇にふれる。夜の空気はひんやりと滑り込んできて少し肌寒いほどだったが、唇だけは不思議と熱を帯びていた。私は出かけていったときよりもいくらか軽やかな気持ちで、家の鍵穴に鍵を差し込んだ。

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