流れ星

 コートとマフラーを身につけて、ベランダへと出た。暖房のきいた暖かな空気に慣れ親しんでいた肌を、深夜の透明な冷気がなでる。寒い。息を吐くと、それはあっという間に白くなって、夜闇に溶け込んでしまった。
「見えた?」私が尋ねると、先にベランダへ出ていた楓が、こちらを振り返った。彼女は小さく笑うと、それから首を横に振る。私は楓の隣に並んで、ベランダの柵から軽く体を乗り出してみる。夜空にはちらちらと星が瞬いて、とくにオリオン座がきれいに見えた。静かな夜で、遠くを走る車の音と、エアコンの室外機の低く唸る音だけが聞こえていた。
 楓の飲んでいる紅茶を、二口ほど頂く。ほんのちょっと前に淹れたそれは、まだ温かな湯気を立てていた。
「ほんとに見えるのかなあ」
 ふたご座流星群、と私が呟くようにして言うと、楓がどうだろうね、と応じる。ふたご座流星群、という言葉は、なんだか語感がよくて好きだ。ふたご座流星群、ともう一度言ってみると、楓がくすくすと笑った。涼しい夜風がふいてきて、その短い黒髪がさらさらと揺れる。
「なによ」笑われたのが少しおもしろくなくて、尖った口調で尋ねる。
「何でもないよ」
 楓は、口元を緩めたままでそう言った。
 今朝のニュースの言う通り、今晩は新月だった。夜空をぐるりと見渡しても、月のかけらさえ見つからない。その分、星のひかりは冴え冴えとして、流星群の見物にはぴったりの状況といえた。
「きれいだね」楓がカップに口をつける。私も、「きれいだねえ」と言ってみる。普段星空なんて見ようとしないものだから、余計に美しくて、大切なもののように思えた。
「ねえ、奈央」
「なあに」
「キス、しようよ」
 私は呆れて、隣の楓を見やる。彼女はほんのりと赤い顔で、機嫌のよさそうな表情で、こちらを見ていた。「いやよ」と私は答える。
「どうして」
「だって、お酒くさいのが移っちゃう」
 楓はすこし前まで、お酒を飲んでいたのだった(私もちょっとだけ飲んだ)。楓は、私の拒否にたいして特に悲しそうなそぶりも見せずに、夜空を静かに見上げていた。これはもういつものことなので、私も慣れてしまって、酔った楓の扱いもずいぶんうまくなった。
 夜空の暗さに目が慣れてくると、先ほどまでは見えていなかった、光の弱々しい星もいくつか見えるようになる。濃紺の上に散らばった光のくずは、思っていたよりもずっとずっと多く、私は驚いてしまう。すごい、と思わず呟いてしまうほど。星空は素知らぬ顔で悠然とそこにあって、まさに私たちを覆い尽くそうとしている。私はどうにかその広大さに飲み込まれてしまわないよう戦いながら、自分のちっぽけさを痛いほどに理解するのだった。
「すごいね」私は、はあっと息を吐く。白く濁ったその向こうに、きらきらと明るい星が見えている。
「本当に」楓がため息をつくみたいに言う。「こんなに綺麗なら、毎晩でも見たいね」
「でも、こうしてたまに見るから、すごく綺麗に見えるんじゃない」
「そうかな」
「そうよ、きっと」
 けれど、楓と二人で毎晩、天体観測をするというのも、なかなか魅力的な考えであった。

 オリオン座が、少し位置を変えた。私たちはそれから、ぽつりぽつり言葉を交わしながら、ぼんやりと夜空を眺めた。流れ星は、いっこうに見えないまま。住宅街からでは無理なのだろうか、と私はちらりと思った。このあたりは民家の灯りもあるし、街灯だって煌々と照っている。これだけ明るいと、星のひかりが隠されてしまうのかもしれない。
 首が痛くなってきて、私は俯いて首のあたりをさする。じわじわと、夜の寒さが体に染み渡っていた。ひゅるりと風がふいてきて、私は思わず身を縮める。季節は冬まっさかりで、おまけに深夜、寒くないわけがないのだった。しかし隣を見やると、楓は不思議と、平気そうな顔をしている。
「寒くないの?」
 そう尋ねると、彼女はお酒のおかげで、と言って笑った。アルコールで、体がぽかぽかとしているらしい。
「奈央は、寒いの?」
「……ちょっと」
 もう部屋の中に戻ろうかしら、と思った。流星群はちっとも見られないし、夜の空気はますますひんやりとしてくる。私は暖房のきいた暖かな部屋と、テレビのくだらない騒音が懐かしくなる。ホットミルクでも作って、暖まるのが良さそうだ。
 そんなことを漠然と考えていると、ふいに隣の楓が動いて、私の背後に回った。どうしたの、と私が尋ねるよりも早く、楓の腕が私の腰にまわって、そのままぎゅうと、私は後ろから彼女に抱きしめられてしまった。ふわりと、楓の香りが広がって、私を包み込む。
「どう?」頭の上から、優しい声が降ってくる(楓と私は、背丈が頭一つ分違う)。
「……あったかい」
 私の答えに楓はふふと笑って、私の頬にキスをした。急なことで私はびっくりして、やめてよと言う。しかし楓は機嫌の良さそうに笑うだけで、キスをやめようとはしなかった。私はもう諦めて、彼女の好きなようにさせることにする。
「奈央は、何をお願いする?」
 楓の声が耳元で響いた。
「流れ星に?」
「うん」
 私は、ちょっとの間考えて、「楓の酒癖がなおりますように」と答えた。なにそれ、と楓は笑って、私の髪に鼻をうずめた(つむじにキスをしているのだ)。
 楓は、お酒に酔うとキス魔になる。キス魔というのは、つまり、やたらとキスばかりをしてくる人のことだ。そのキスの矛先が私だけに向くのなら、別に構わないのだが、そうではないので私は困っているのだった(たとえばサークルの飲み会なんかで、私はとてもやきもきとしてしまう)。
「キスするなら、私だけにして」
 そう言ってみるが、楓はただ嬉しそうに笑うだけだった。
「楓は何をお願いするの?」
 私が訊くと、楓はううんと唸って、なかなか答えない。それからたっぷり三十秒かけて、彼女は、「あんまり思いつかないね」と言った。私は星空を見上げながら、そう、と相槌をうつ。楓のもつ紅茶はすっかり温くなってしまったようで、もう湯気はたっていなかった。
「でも、多分、奈央のことをお願いすると思う」ぽつり、と楓が言う。
「私のことって、例えば?」
「例えば、」
 ぎゅう、と私を抱く腕の力が少し強まった。首をずらして楓を見上げると、彼女は流れ星を探している。
「たとえば、奈央とずっと一緒にいられますように、とか」
「……なに、それ」
 馬鹿ね、と言いたくなった。そんなこと、わざわざお願いする必要ないのに、と言いたかった。けれど私は我慢する。ここでそんなことを言ってしまえば、酔った楓をますますご機嫌にするだけなのだ。
 私は代わりに、楓と一緒に流れ星を探してあげる。そして、流れ星を見つけられたなら、私たちのことをお願いするのだ。夜の空は相変わらず穏やかで、星はちらちらと、遠くで礼儀正しく瞬いている。
「私ね、別に流れ星なんか見えなくたっていいの」
 楓に言ってみる。すると、ふふふという笑い声が降ってきた。「私も、同じ気持ちだよ」
 私たちは何も言わないで、ぴったりと寄り添って夜空を眺める。静かな楓の呼吸の音が、とても心地よかった。紅茶はもう冷めてしまったけれど、私たちはまだしばらく部屋へは戻らないだろう。もう少し、この密やかな夜の匂いを、味わっていたいから。

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