つめたい手

 雨から逃れて車内へと乗り込むと、ひんやりとした空気が私を迎え入れてくれた。「どちらまで」と尋ねてきた初老の運転手に、私は最寄りの駅名を伝える。ばたんとドアが閉まり、タクシ−は滑らかに走り出す。心地よい加速を感じながら、私は大きく息をついた。雨粒が間隙なく窓ガラスを叩いていた。
「急な雨ですねえ」
 運転手のおじさんの言葉に、「本当ですね」と応じながら、私はハンカチを取り出す。そうして、濡れてしまった髪とスーツの肩を拭いた。まったく、雨が降るなんて思いもしていなかった。取引先の会社についた頃はかんかん照りの晴れ間が広がっていたのに、新しい商品の説明を終えてそこを出た時には大粒の雨が降り出していたのだった。すっかり油断していたので傘も持ってきておらず、雨が止むまで待っている気にもなれなかったので、こうして私はタクシーを拾ったのだった。
 急な雨のためか、道路はやや混雑しているようだった。私はぼんやりと窓の外、歩道の人々を見やった。用意周到に傘を差して歩く人、カバンを雨よけにして駆ける人、建物の軒先で雨宿りをする人。濡れたガラス越しの、ぼんやりとしたそのシルエット達を、タクシーは快適な速度で追い越していく。車内には、小さな音でラジオがかけられていた。
 その時、制動。タクシーがゆっくりと減速していく。前の車両のブレーキランプが、雨粒でゆらゆらと蠢いた。どうやら赤信号に引っかかったようだった。小さくため息をついて、私は窓の外に視線を戻す。すると、コンビニの店先で雨宿りをしている女性の姿が目に飛び込んできた。
 雨に濡れた窓ガラス越しでは、その姿をはっきり確認できた訳ではなかった。しかし、その時の私にはある直感が働いた。髪はやや茶色がかったセミロング、背は低めで、退屈のあまり小さくあくびをしている——私は自然と、窓を開けていた。そして、
「有梨!」
 声を張って、名前を呼んだ。そのシルエットは一度びくりとして、それからこちらに顔を向けた。その時の私は、きっとどうにかしていた。しかし、どこか猫のようなところがある彼女を見ると、どうしても放っておけなくなってしまうのだった。
 有梨はぱっと笑みを浮かべると、駆け足でこちらに向かってきた。
「みき、久しぶりだね」
 雨音に混じって聞こえるその声は、あの頃と少しも変わっていなかった。
「あなた、こんなところで何してるの」
「なにって、雨宿りだけど」
「そうじゃなくて……」
 そこで、運転手がちらりとこちらを見たのに気づいた。
「乗りなさいよ、信号変わっちゃう」
 ドアがゆっくり開いて、有梨がその細身の体を滑り込ませてきた。私は右に移動して、有梨のためのスペースを作ってやる。運転手は彼女が乗り込んだのを確認して、それからアクセルを踏んだ。信号は、既に青に変わっていた。
 私はちらりと、左に座る有梨を盗み見た。彼女もこちらを見ていた。記憶のなかの有梨と比べると、髪が少し伸びただろうか。しかし、私を馬鹿にするような、からかうようなその目つきは、ちっとも変わっていなかった。私は彼女にハンカチを差し出す。「ほら、拭きなさいよ」
「おや、これはこれは」
 有梨はふざけた口調でハンカチを受け取ると、濡れた髪と肩口をゆっくりと拭いた。
「みきは、変わってないね」
「そういうあなたも」
 有梨がこちらを向く。目が合うと、彼女は笑みを浮かべた。「一年半振り、だね」
 もうそんなになるかしら、と私は指折り数える。十二月、年が明けて一月、二月、三月(大学の卒業式でも会わなかった)、私の社会人一年目まるごと(四月から三月まで)、二年目の四月、五月、六月、そして七月。
「正確に言うと一年と八ヶ月振りね」
 私が数え上げてそう言うと、有梨はころころと笑った。彼女のそんな様子を見ていると、私は過去に引きずり戻されるような感覚に襲われるのだった。この一年八ヶ月など無かったかのように、あの頃に戻ったかのように。しかし、私の着ているスーツが決定的に現実だった。
「……あなたは今、どうしてるの」
 私は尋ねる。有梨の服装は、平日の昼間だというのにどう見ても私服だった。
「んー、バイトしてるよ」
 今日はお休み、と有梨は軽い口調で言った。私はそんな彼女に呆れて、思わずため息をついてしまうのだった。
「あなたねえ、いつまでそうやってフラフラしてるつもりなの」
「そうだねえ、……飽きるまで、かな」
 有梨は本当に、ちっとも変わっていないようだった。ありがと、と有梨がハンカチを手渡してきたので私はそれを受け取る。
「みきは、ちゃんと社会人やってるんだね」
「ええ、まあね」
「ふうん……」
 有梨が窓の外に視線を向けて、気のないような返事をした。「みきは、ちゃんと歩き出してて偉いな」
「……なによ、それ」
 私にはそれしか言えなかった。有梨は何も返さなかった。有梨の顔は窓の外に向けられていて、私からでは彼女の表情を読み取ることはできなかった。タクシーが、ゆっくりと速度を落とす。また赤信号だ。タクシーが完全に停止してしまうと、車内は雨とラジオと、ワイパーがしきりに動く音だけになった。
 静寂を破ったのは有梨だった。
「あ、運転手さん。私ここまででいいです」そう言って、財布から千円札を取り出した。
「ちょっと、駅までまだあるのに」
「大丈夫、この辺りからバスが出てるから」
 タクシーのドアが開いて、有梨は身軽に車外へ降りた。雨はまだ強い勢いで降っているようだった。私は有梨の出した千円札を手に取って、
「お金だって、私が出すから別にいいのに」
「いいの。雨の中拾ってくれたお礼」
 そんなのいいのに、と私は言いたかった。しかし、なぜだか言えなかった。
「じゃあね」
 有梨の声が聞こえて、ドアがばたんと閉じた。信号が青に変わる。動き出すタクシー。私は有梨を目で追おうとしたが、その後ろ姿はあっという間に、歩道を歩く傘の群れの中へと消えてしまった。

     *

 有梨と私は、大学三年生の十一月からおよそ一年間、恋人関係にあった。私は特別、そうした同性愛の性指向を持っているわけではなかった。しかし、有梨には惹かれた。はっきりとした理由は分からないが、有梨のあの目に見つめられると、落ち着かなくなる自分がいるのに気づいたのだった。
 帰社してからも、私の心はあのタクシーの中にあるようだった。自分のデスクに戻ると、先輩が私のところまでやってきて、「大丈夫だった? 何も問題なかった?」と尋ねてきた。
「ばっちりです」
 そう返答すると、彼は意外そうな顔をするのだった。「それならよかったけど、神谷さん、浮かない顔してたから」
「……たまたま、そう見えただけですよ。きっと」
「あ、でも僕も、何かあったのかなって思いましたよ」隣のデスクの、芳野くんが話に加わってきた。「あんな神谷さん、初めて見たから」
 私は否定の言葉を繰り返しながら、内心で自分を叱りつける。有梨なんて、気にかけることではないわ。たまたま、過去が雨と一緒に降ってきただけだ。
 その後、仕事のスケジュールについて少し話をして、先輩は自分の席へと戻っていった。私は小さく息を吐く。なぜだか気疲れしている自分がいた。椅子に座りなおして、パソコンに向き合う。そのタイミングで、隣の芳野くんが再び声をかけてきた。
「神谷さん。もし何かあったら、僕、神谷さんの力になりたいって思いますよ」
 歯の浮くようなセリフを、彼はどこまでも真面目な顔で言うのだった。私は思わず笑顔になる。「ありがとう」
 私の思い人は、今日も優しい。

 仕事が終わる時間になっても結局雨は止まず、私は会社の傘を借りて帰宅することにした。外に出ると、雨の匂いを強く感じた。駅へと向かう人の流れに紛れて、傘を差して歩き出す。そうしながら、私は彼女のあの一言を思い出していた。
『みきは、ちゃんと歩き出してて偉いな』
 その時彼女は、どんな表情をしていたのだろう。彼女がいつもしていたように、軽い冗談のつもりで言ったのだと思いたかった。
 大学四年生の秋、別れを切り出したのは私からだった。有梨は自身の将来、未来への関心が希薄で、私は彼女のそんなところに嫌気が差したのだった。別れ話は比較的穏やかに進んだ。有梨も私の言い分に理解を示してくれた。そうして私たちは恋人関係を解消した。有梨と別れてからは、卒業論文の執筆に追われたり、内定先の会社の研修があったりと忙しく、彼女のことを思い出すことはあまりなかった。
 しかし、有梨は違ったのかもしれない。彼女は自分の言いたいことを抑えて、私の要求を飲んでくれたのかもしれない。別れてからも簡単に私を忘れることができず、あの季節に囚われ続けているのかもしれない——もしかしたら、今もまだ。もしそうだとすれば、元恋人である私にもある種の責任が生じてくるのかもしれない。
 そこまで考えて、私は自分の傲慢さに呆れた。仮に私の考えが当たっていたとしても、抱え込む痛みは有梨自身のものだし、そこに踏み込む権利は、もはや私にはないのだった。くよくよしてもどうにもならない問題だわ、と私は思うことにした。有梨のことは有梨にしか分からないのだ。今日は久しぶりにお酒を飲むことにしよう。そう決めると、自然と足取りは軽くなった。私は差した傘をくるくると回しながら、駅へと向けて歩みを進める。背の高いビル群の上に浮かぶ雲はまだ厚く、雨はしばらく止みそうになかった。
 その晩、私は夢を見た。有梨の夢だ。珍しいことに、出不精の彼女が外で食事をしようと提案してきた。私はすぐにその提案を受け入れて、そうして私たちは夜の街に繰り出した。適当な居酒屋に入って、軽い食事と共にビールを二杯ずつ飲んだ。私も有梨も上機嫌だった(私たちは、同じ量のお酒で同じくらいに酔えるのだった)。そう、季節は夏だった。おもてに出た時に、湿度の高いべったりとした空気が肌にまとわりついたのを覚えている。有梨は袖なしのワンピースを着ていて、それでも店を出ると暑い暑いとしきりに言っていた。
 食事を終えた後、私たちはどうでもいい話をしながら、夜の街を散歩した。途中、有梨がアイスを食べたがったので、コンビニに立ち寄って棒付きのアイスと、自分用にペットボトルのお茶を買った。それらをお供に、散歩を続ける。確か日曜日だった。駅前の飲み屋街は比較的賑わっているのに対して、そこから離れたビジネス街や公園を歩くとあまりに人気が少なくて、私たちだけの世界になってしまったのかしら、と少々不安になった。
「口がソーダ味になっちゃった」
 アイスを半分ほど食べたところで、有梨がそんなことを言った。お茶飲む、と私が尋ねると彼女は首を横に振って、ふっとその身を寄せてきた。有梨の顔が目の前に迫って、そして唇が触れて、私は突然のことにおかしな声を出してしまった。唇が離れると、有梨はけらけらと笑った。至近距離で目が合う。有梨はいつも通りの、私をからかうような目をしていた。
「……味、よく分からなかったわ」
 私の言葉に、有梨はいたずらっぽく笑う。「なあに、みき、キスしたいの?」
 返事はしなかった。私は有梨の腰に手を回して、彼女をそっと引き寄せる。有梨が目をつむる。私はそれを確認して、そっと唇を重ねる——。
「わっ」
 突然、私たちではない誰かの声が聞こえて、私は慌てて有梨の体を離した。声のした方向には、そこの曲がり角から現れたのであろう、男女のカップルの姿があった。彼らは私たちに一瞥をくれると、大変不快なものを見た、というような表情で、いそいそとその場を去っていった。彼らが小声で言葉を交わしているのが聞こえた。何と言っているのかはっきりとは分からなかったが、心ない言葉の断片が私の耳には届いた。
「ほっときなよ」
 有梨はつめたい声で言うと、食べかけのアイスを齧った。有梨にこの手の中傷は響かなかった。彼女は他人を見下しがちで、そうした下位の存在に何を言われたところで、全く気にならないのだそうだ。しかし私は違った。彼らの言葉で、かあっと体の内側が熱くなって、私は去っていくその背中に、怒号を投げつけた。
「女どうしの、何がいけないのっ!」

 その怒鳴り声で、私ははっと目を覚ました。見慣れた天井が飛び込んでくる。有梨の唇の感触も、燃えるような怒りも、痕跡ひとつ残さず蒸発して、残ったのはベッドの上に横たわる自分自身だけだった。いやにリアリティのある夢だった、などと思いながら、ベッド脇の時計を確認する。午前六時三十分。外からは既に蝉の鳴き声が聞こえていて、今日も暑くなりそうなのだった。そこで私は思い出す。夢に見たできごとは、私の脳が作り出した虚構ではなく、私の記憶そのものだ。ちょうど二年前の夏、私たちが大学四年生だった頃に、実際に私が体験したことなのだった。
 有梨の夢を見るなんて、本当に久しぶりだった。私はあまりに情けなかった。有梨のことなんて気にしても仕方がない、忘れよう、などと努力しても、私の根幹は彼女のことを完璧に意識しているのだった。
 六時四十分に設定しておいた目覚まし時計が鳴り出した。私はそれを止めて、ベッドから抜け出す。今日もまた、一日が始まろうとしていた。

     *

 それからしばらくは、何事もない日々が続いた。有梨に会うことも、彼女の夢を見ることもなかった。朝起きて、会社に行って仕事をして、時々芳野くんとおしゃべりをして、仕事を終えて家に帰る。その繰り返しの、平和な日々。芳野くんの存在は、私の生活に彩りを与えてくれた。彼は、私の一つ下の新人で、私の片思いの相手でもあるのだった。
 そんなある日、芳野くんから誘われた。
「神谷さん。もし良かったら、今日仕事終わった後、飲みに行きませんか?」
 金曜日だった。芳野くんからの誘いなんて初めてだったので、私は二つ返事で承諾した。芳野くんはにっこり笑うと、
「関さんと、菊池さんも来ることになってるんです。楽しみですね」
「そ、そうだね」
 私は笑顔を作りながら、内心で落胆していた。勝手に、芳野くんと二人きりで飲みに行くものと勘違いしていたのだ。関さんと菊池さんを、お邪魔虫と罵ってみる(彼らは私の一つ上の先輩だ)。しかし外野がいたとしても、芳野くんと飲みに行けるということには変わりないのだ。気の持ちようだわ、と私は思うことにする。それに、芳野くんと職場以外で会うのは初めてのことなので、いきなり二人きりになるのは性急に思われた。これから徐々に、お近づきになっていけばいいのだ。
 しかし、仕事が終わる時間になったところで、関さんと菊池さんが予定をキャンセルすると言い出した。どうやら来週までの仕事についてミスが見つかったらしく、その対応のために残業をするということだった。
「どうします? せっかくなので、二人だけでも行きますか?」
 芳野くんの言葉に、私は頷く。突然に降ってきた幸運に、私の心は震えていた。普段神様なんて信じていないが、その時ばかりは思わず神様! と手を合わせそうになった。
 二人で会社を出て、駅前の飲み屋街へと向かう。夕方に少し雨が降ったらしく、道路の所々に水たまりができていた。次第に暗くなっていく空には、どんよりと雲がかかっていた。
「なんだか、すっきりしない天気が続きますね」
「本当だね」
 芳野くんとの何気ない会話にも、私はささやかな幸せを感じていた。
 金曜日の夜とあって、飲み屋街は混雑していた。特に食べたいものや飲みたいものの希望がなかった私たちは、適当に席の空いてそうな居酒屋を選んだ。
「いらっしゃいませー!」
 中へ入ると、威勢の良い声に迎えられる。入り口近くにいた店員が、お二人様ですか、と対応してくる。私はその店員の顔を見て、思わず声が出そうになった。小柄な体に茶色がかった髪、それは有梨だった。働いている最中だからか、いつもは下ろしている髪を、今は結び上げていた。有梨も私に気がつくと一瞬驚いた顔をしたが、すぐに営業スマイルに戻ると、私たちを半個室の席へと案内するのだった。
 私と芳野くんは向かい合わせに腰掛ける。店内は混み合っているようで、がやがやと騒がしかった。それでもすぐに有梨がおしぼりとお通しを運んできて、芳野くんがビールを二杯注文すると、それもほんの数分で運ばれてきた。
「乾杯」
 私たちはジョッキを軽くぶつける。芳野くんはぐいぐいとジョッキを煽って、すぐに半分ほど飲んでしまった。「あーっ、やっぱり仕事終わりのビールは最高ですね」
「そうだね」
 私はそう応じながら、目の端で有梨の姿を追いかけていた。彼女はきりきりと働いていた。そのバイト服姿が、私にはとても新鮮で、有梨に全く似合っていないように思えた。
 他にも色々注文しましょうか、と芳野くんが言って、彼は近くにいた有梨を呼んだ。芳野くんは既に中ジョッキを空けていた。彼は追加のビールと、それから何皿かのおつまみを注文した。神谷さんは何かありますか、と芳野くんがメニューをこちらに見せてくれる。私はそれにざっと目を通して、首を横に振った。「芳野くんが頼んだもので、とりあえず大丈夫かな」
 注文の間、私はちらちらと有梨に視線を向けていた。有梨も、何度か私の方を見ていた。私は彼女と目が合わないように意識していた。目が合ってしまえば、何かが壊れてしまうような気がしていた。
 注文の確認を終えて、有梨がテーブルを離れる。私はその後ろ姿を見ながら、大きくジョッキを煽った。せっかく芳野くんと二人きりで食事に来ているのに、どうして昔の恋人のことをこんなに気にしなくてはいけないのだろうか。今は、芳野くんとの時間を楽しまないと損だ。有梨のことを忘れるために、私の心の中の彼女を追い出すために、たくさんのお酒が必要だった。
 突然ペースを上げた私に、芳野くんは目を丸くした。
「神谷さんって、結構飲むんですね」
「芳野くんほどじゃないけどね」
 実際に、芳野くんはどんどんジョッキを空けて追加のお酒を注文していた。私も負けじと、ビールを胃に流し込んでいく。
 酔いが回るにつれ、話は弾んだ。私たちは仕事の話をしたり、あるいはプライベートの話をした。お互いの趣味や、家族のことや、休日の過ごし方について情報を交換した。これまで知らなかった芳野くんの一面が、どんどんと明らかになっていく。芳野くんはよく喋り、よく笑った。私もそれに呼応するように、よく笑って、よく飲んだ。それはとても嬉しくて、幸せな時間だった。
 しかし、私たちの幸せな時間は、突然に聞こえた怒声によって中断された。私は芳野くんと目を合わせて、それから少しだけ腰を浮かせて、声の方向を見やった。それは隣のテーブルだった。スーツ姿の恰幅の良いおじさんが、顔を真っ赤にして、店員に向かって怒鳴っているところだった。「ああいう人、どこにでもいますよね」芳野くんが小さな声で言う。私は頷きながら、その中年男性を恨めしく思っていた。せっかくの幸せな時間だったのに、水を差すなんて。怒鳴り声は止まることを知らず、聞こうとしなくても私たちの耳に入ってきた。つまりは、食事だったり飲み物の提供があまりに遅いことについて、文句を言っているようだった。怒鳴られている店員は、申し訳ありません、と繰り返しながら、ひたすら頭を下げている。私は馬鹿らしくなって、ビールに口をつけた。あんな面倒な客に捕まって、店員さんもご愁傷さまだ——しかしその店員は、見覚えのある茶色がかった髪をしていた。
 それは、有梨だった。
 彼女は小さい体をさらに小さくして、怒鳴り散らす中年のおじさんに謝り続けていた。申し訳ありません、こちらの不手際です、本当に申し訳ありません。中年はそれでもまだ怒り足りないのか、その矛先を有梨自身のことへと向けた。だいたい飲食店だって言うのにその髪色はなんなんだ、学生だからって適当に仕事をやっているんだろう、こっちは社会人なんだ、お金を払ってこの店に来てやってるんだ、云々。こちらからは、有梨の表情は窺い知れなかった。彼女はどんな気持ちで、この罵倒を聞いているのだろうか。それを思うと、かっと顔が熱くなるのを感じた。
「——神谷さん?」
 はっと我に返ると、芳野くんが心配そうな表情でこちらを覗き込んでいた。「怖い顔してますよ」
「あ、うん……」
「それにしても、ひどいですよね」
 小さな声で芳野くんが言った。私はその言葉を聞き終わらないうちに、席から立ち上がっていた。神谷さん、と芳野くんが私を呼んだ。しかし、その声は私の頭には入ってこなかった。私はずかずかと大股で、今尚頭を下げ続けている有梨のところへと向かった。
「……なんだね、君は」
 私に気づいたその中年は、怒鳴るのをやめると不愉快そうに私をじろりと睨んだ。有梨が顔を上げる。みき、と小さな声で名前が呼ばれる。彼女の顔には表情はなくて、私の胸は、痛いくらいに悲しさでいっぱいになってしまった。
「一方的に怒鳴るのが、そんなに楽しいですか」
「……君はこの店の責任者か何かかね? そうでないなら、この話に立ち入る権利は君にはないだろう。私は客として、この店の従業員にアドバイスをしてやっている所なのだよ」
 なにがアドバイス、よ。
「このっ、マスターベーション野郎っ!」
 私はテーブルに置いてあったお冷のグラスを手に取ると、思い切り振りかぶった。その憎たらしい顔面に、ぶつけてやるつもりだった。みきっ、と有梨が私を呼んだ。彼女は驚いた顔で、私を止めようとしていた。なによ、どうして、そいつを庇うようなことをするの。私は泣きそうになりながら、グラスを投げつけようとした。しかしそれは叶わなかった。後ろから、強い力で腕を掴まれた。
「神谷さん、落ち着いて」
 芳野くんだった。「離してっ!」私は彼の拘束から逃れようとするが、芳野くんの力は私よりもずっと強かった。そうしているうちにグラスは私の手から滑り落ちて、床にぶつかると、鋭い音と共にバラバラに砕けた。
 店内は水を打ったように静かになっていた。芳野くんの手には、もう力は入っていなかった。私はその手を振りほどくと、その場から駆け出した。途中、有梨と目が合った。彼女は心底驚いたような顔で私を見ていた。私はごめん、と謝ろうとしたが、それは声にならなかった。
 化粧室の洗面台で、私は散々に泣いた。悲しくて、悔しかった。私はもはや、自分が分からなかった。多分、飲みすぎたのだと思う。ぐらぐらの頭の中を、色々なことがいっぺんに駆け巡った。有梨と再会した雨の日のこと、タクシーの車内の匂い、二人で居酒屋へ行ったこと、その時のビールのつめたさ、彼女の表情のない顔、私のヒステリックなところ、割れたグラスのこと。記憶と思考が濁流になって、そしてそれは涙になって、私の外側へと排出された。それは、いつまでも途切れることのないように思われた。
 どれだけそうしていただろうか。涙は依然止まるところを知らなかったが、頭は次第に冷静さを取り戻していた。鏡に映った自分の顔を見て、ひどい顔をしていると思えるくらいの余裕は生まれてきた。その時、化粧室の扉が静かに開いた。鏡越しに、私はその姿を確認する。
「有梨……」
「みき、大丈夫? 落ち着いた?」
 有梨は、私に近づこうとはしなかった。化粧室に入ったところから、静かに私を見つめていた。薄暗い化粧室の中で、彼女の髪はいつもよりも暗い色に見えた。
「……有梨、ごめん。面倒なことにしちゃって」
 彼女はかぶりを振って、それから呆れたように小さく笑った。
「酔うと周りが見えなくなるのは、昔と変わってないんだね」
「……本当にごめん」
「ううん。嬉しかったよ」
 有梨の言葉に、また泣けてきた。「こんなバイト、やめちゃえばいいのに」私は小さな声で言った。「あんなの、有梨じゃないよ」
 それは、有梨への甘えだった。もはや彼女の恋人でない私には、そんなことを言う資格はなかった。しかし言わないではいられなかった。人のことを見下している有梨は、あれだけ怒鳴り散らされても、平気なのだろうか。全然、響かないのだろうか。私は、感情のない彼女の顔を思い出していた。あんな有梨、私は見たくなかった。人をからかうような態度で、こちらを馬鹿にするような目つきで、堂々と、我関せずといった風でいてほしかった。
「……私、そろそろ戻らなくちゃ」
 有梨が言った。「また会えて、嬉しかったよ」彼女はそう続けて、くるりとこちらに背を向けた。有梨が行ってしまう。そう思うと自然と足が動いていた。待って、と呼びかけたが、それはちゃんと声になっていただろうか。
 気づけば私は、有梨の背中にしがみついていた。
「……みき、私行かなくちゃ」
 それはよく分かっていた。それでも、有梨と一緒にいたかった。彼女の声を、もっと聞いていたかった。今の私には、有梨が必要だった。有梨を困らせている。困らせられるのは、いつも私の役目だったのに。
 彼女の結んだ髪が、私の頬をくすぐっていた。こんなに有梨に近づいたのは、別れてから初めてのことだった。
「みき」
 有梨が私を振り返る。その手が、私の頬に触れる。つめたい手だった。泣き腫らして熱を帯びた頬に、そのつめたさが心地よかった。
「顔、ちゃんと洗いなよ」
「……うん」
「それから、あの彼氏のこと、大事にするんだよ」
 芳野くんのことだ。私は大きく首を横に振る。「彼氏じゃないよ」
 私の返答に、有梨は目を丸くして、それから小さく微笑んだのだった。
「そっか」

 有梨が行ってしまってから、私は洗面台で顔を洗った。目がひどく腫れていた。何度か顔を洗って、すっかり落ち着いてから店内へ戻ると、事態はすっかり収拾しているようだった。割れたグラスは片付けられ、隣のテーブルのおじさんとその連れの人も、いなくなっていた。席には芳野くんが一人で座っていて、私の姿を認めると安堵したように笑った。
「神谷さん、大丈夫でしたか?」
「うん。色々ありがとうね」
 芳野くんによれば、私たちにお咎めは無しとのことだった。他の客に手を上げようとしたのはやり過ぎだったが、元々クレーマーへの対応が遅れたのは店側の問題であるし、結果として怪我人が出るような大事にはならなかったため、だそうだ。テーブルには飲みかけのビールや、食事が何皿か残っていたが、もはや手をつける気にはなれなかった。それは芳野くんも同じようで、それらをしばらく眺めた後で、行きましょうか、と彼は席を立った。さすがに芳野くんに申し訳なかったので、お勘定は全部私が持った。店を出る直前に店内をぐるりと見渡したが、有梨の姿は見つからなかった。
 おもてに出ると、すっかり夜だというのに空気は蒸し蒸しとしていた。駅までの道のりで、私と芳野くんは一言も喋らなかった。飲み屋街の夜はまだまだ長いようで、人々の騒がしい声がしばしば聞こえていた。
「神谷さんがあんなに熱い人だなんて、思いもしませんでした」
 駅の改札のところで、芳野くんはそんなことを言った。私と芳野くんは使っている路線が異なるので、ここで解散だ。
「今日は、本当にありがとう」
 頭を下げる。すると芳野くんは冗談めかした口調で、「今度からは、飲みすぎないように注意してくださいね」と言うのだった。
 それじゃあ、と私たちは解散した。私は改札を通って、ホームへの階段をゆっくり降りていく。そうしながら、芳野くんの言葉をぼんやりと思い返した。「今度」と言うからには、次の機会もあるということなのだろう。私は小躍りしたい気分になる。お酒に酔いすぎて失敗したか、と思っていたが、どうやら結果オーライのようだ。私は、私の腕を掴んだ彼の力強さを思い出してみる。大きな口でビールをがぶがぶと飲む彼の姿を思い返してみる。
 しかしそれらは、本当に些細なことだった。芳野くんのことも考えていた。しかし私の頭の大部分は、有梨によって占められていたのだった。何度も何度も、繰り返し、彼女の手のつめたさが、鮮烈に蘇ってきた。私は自分の頬に触れてみる。駅のホームにはいくらか涼しい風が入り込んできて、熱を帯びた頬に気持ちが良かった。
 今や私には、恋というものがよく分からなくなっていた。

     *

 その日は完璧な夏晴れだった。空には雲一つ浮かんでいなくて、太陽が高いところからじりじりと熱を浴びせていた。私が訪問先の会社を出た頃には、外気温は三十五度をゆうに超えていただろう。屋外に出た瞬間に汗が噴き出してきて、これはどうしたものか、と私は思案するのだった。ここから駅まで徒歩で十五分。大雨という訳ではないから歩くことは十分可能だったが、これだけの暑さだと気が引けてしまうのだった。しかしタクシーを拾うとなると、それはそれで考えものであった。上司からは、経費削減のために歩けるなら歩け、と口うるさく言われているのだった。
 汗だくになるか、上司からお小言を受けるか。私は二つを天秤にかけて、前者を取ることにした。たまには運動も必要だ。そうして歩き出したところで、
「みき!」
 私を呼ぶ声が聞こえた。一瞬どちらから声がしたのか分からず、私はきょろきょろと辺りを見渡す。みき、ともう一度呼ばれると、今度ははっきりと声の主が分かった。いつかの私がしていたみたいに、彼女はタクシーの窓から顔を覗かせて、こちらに手招きをしていた。
「有梨」
 私が驚いたのは、彼女の髪が黒く染め直されていて、さらにその身はスーツに包まれているということだった。
「駅まで行くんでしょ。乗りなよ」
 有梨が言うので、私はお言葉に甘えて、タクシーに乗り込んだ。車内は空調が利いていて、大変涼しく、快適だった。私がシートベルトをつけたところで、タクシーは静かに走り出した。
 あの居酒屋での騒動から、二週間が経っていた。私は改めて、有梨の全身を眺める。黒髪の有梨を見るのは初めてで、ひどく新鮮だった。たった二週間で、人はこんなにも変わってしまうものらしい。
「その格好、一体どうしたのよ」
「んー、」有梨は少し恥ずかしそうにしていた。「実は、就職活動始めたんだ」
 私は心底びっくりしてしまう。
「どういう風の吹き回しよ」
「いつまでもふらふらしてると、みきに怒られちゃうから」
 そう言って、有梨は小さく笑った。
 あの、自分の将来へ全く興味関心のなかった有梨が。それが原因で私とどれだけ喧嘩しても、私との恋人関係を解消することになっても、決して就職しようとしなかった有梨が。
 私は信じられない気持ちでいっぱいだった。それが多分表情に現れていたのだろう。有梨はふんと鼻を鳴らすと、窓の外へ顔を向けた。「私だって、色々思うところがあるんだから」
「バイトはどうしたの?」
「それは、やめちゃった」
「……もしかして、私のせい?」
 私の言葉に、有梨はかぶりを振った。
「私がやめたくてやめたの。薄々、このままじゃいけないって分かってたし……」
 目が合う。彼女の目に、私をからかうような色は見られなかった。どこまでも深い鳶色の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。私は思わず、どぎまぎとしてしまう。そんな目をした有梨を見るのは、初めてだったのだ。
「だからね、みき。ありがとう」
「わ、私はお礼を言われることなんて、なにも……」
「ううん」
 私は普段の自分を取り戻すために、一つ咳払いをした。「で、就職活動はどう。順調?」
 有梨はにやりと笑うと、小さくピースサインを作る。
「楽勝」
 それは、自信満々ないつもの彼女であった。
 赤信号でタクシーが停車する。有梨は窓からの景色を見て、あっと小さく声を上げると、
「私、ここからバスだから」
 そう言って、カバンから財布を取り出す。私はそれを腕で制して、
「いいよ、私が出しとくから。この間出してくれた千円があるでしょ」
 タクシー代は経費で落ちるので、あの雨の日に有梨が出してくれた千円札は、使われずに私の財布の中に残っているのだった。それでも有梨は財布から新たに千円札を出して、私に手渡してきた。
「その千円札は取っておいて。そのお金で、今度ご飯でも行こうよ」
 タクシーのドアが開いて、有梨は腰を浮かす。彼女は「またね」と言うと、車外へと降りた。その言い方があまりに自然だったので、私は何も言えないでいた。彼女の肩までの黒髪が、風に揺れる。夏の熱気。
 やがてドアが閉まって、タクシーは静かに走り出す。後ろの窓越しに有梨の姿を探すと、彼女は小さく笑いながら、こちらに手を振っていた。
 そのスーツ姿は、あのバイト服に比べれば、ずっと彼女に似合っているのだった。

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