午後の陽射し

「おやつを食べに行こうっ」
 美羽が突然にそんなことを言い出したので、私は読んでいた本から顔を上げて、非難の視線と共に、人差し指を口に当てた。図書室ではお静かに、である。美羽は私のジェスチャーを受けて辺りをきょろきょろと見渡すが、すぐにその口を開きなおすのだった。
「私たちの他には、誰もいないよ」
「あら」
 彼女に倣って室内を見渡すと、確かに、司書さん以外に人の姿はなかった(彼女は、奥の方で何かしらの作業をしているようだった)。夏休み明け早々に図書室にやってくるような物好きは、私たちくらいのようだ。夏の終わりの昼下がり、おもてから熱心な運動部の声が、フィルター越しのように遠くに聞こえていた。
 図書室に来て本を読む、というのはここしばらくの、私の中での流行だった。夏休みの間、家にいるのにも飽きて、暇を持て余していたときに、ふとした思いつきで夏休み営業中の図書室に来てみたところ、冷房が適度に効いていて涼しく、静かで、大変居心地の良い環境であることが分かったのである。それは発見であった。私はその発見を独り占めにして、夏休み中しばしば図書室にやってきては、本を読んだり、夏休みの宿題をしたり、あるいは惰眠をむさぼったりと、思うがままに過ごしていたのだった。
 今日の学校は午前中でおしまいで(始業式と簡単なホームルームだけだった)、午後から暇であったので、今日は美羽を連れて図書室にやってきた、という訳だった。
「図書室なんて、本当に久しぶり」
 美羽は図書室に入って、第一にそんなことを言った。私の把握している限り、美羽には読書するという習慣がないので、彼女が図書室に最後に訪れたのは入学当初、探検がてらに校内を散策した時であろうと思われた。彼女は物珍しそうに図書室の書棚を見て歩き、一冊の本を手に取って来ると、既に席についていた私の向かいに腰をかけた。
「でも、綾香ちゃんが図書室に通っていたなんて、全然知らなかったな」
 美羽は本を開きながらそんなことを言った。タイトルは『スイーツの名店百選』。お腹の空きそうな本だな、などと思っていると、
「私だって、夏休み、暇してたのに」
 恨みがましい呟きが聞こえたので、私は素知らぬふりで自分の本に目を落とした。
 そうして、一時間ほどが経った頃だろうか。美羽はじっと本を読んでいるのに倦んでしまったようで、ぱたりと本を閉じると、
「おやつを食べに行こうっ」
 と、私を誘ってきたのである。時刻は午後二時を少し回ったところで、お腹の中のお昼ご飯も多少片付き始めた頃だった。
「どうせ、その本を読んでたらお腹が空いてきた、とか言うんでしょ」
 なにせ、『スイーツの名店百選』だ。私の言葉に、美羽は頬をぷうっと膨らませると、「別にいいでしょー」と小さく言うのだった。私も、読んでいた本が区切りのいいところであったし、彼女の提案に乗り気でない訳ではなかった。いいわよ、と応じると、美羽は一転、ぱっと笑顔を咲かせた。
 身支度をして、涼しい図書室を出る。九月が始まったとはいえ、まだまだ昼間は暑く、図書室は空調により適切な温度に保たれていたのだった。
 校舎を出ると、午後の陽差しが私たちを撃った。校庭では、野球部がノック練習の真っ最中であった。カコン、カコンという規則的な音と、男子たちの熱気のこもった、野性的な声。短い影を踏んづけながら、私たちは校門をくぐった。
「それで、おやつって何を食べに行くつもりなの」
 私は美羽に尋ねる。おもては暑く、とてもじゃないが、ごてごてのパンケーキだったりを食べに行くような気分ではなかった。美羽は私を振り返ると、にやりと口元を崩して、
「ここは涼やかに、和菓子などでどうでしょう」
「……いいわね」
 意外な返答だった。美羽の口から、「和菓子」という単語が飛び出すとは。
「さっきの本で和菓子のお店が取り上げられてて、いつもあまり食べないから美味しそうだなあ、って」
 気持ちが顔に表れていたのだろう、美羽は小さく笑って、付け足すようにしてそう言った。
 私も和菓子はめったに食べないが、一店だけ駅前のお店を知っていた。商店街の並びにあって、店内に喫茶スペースのあるお店だ(若い人が入っているのを私はあまり見たことがない)。店名を挙げると美羽もその店を知っていて、そこに決まりになった。
「綾香ちゃん、髪が伸びたね」
 商店街への道すがら、並んで歩く美羽がそんなことを言った。そうかしら、と応じる。確かに、自分で前髪を切ったりはしていたが、夏休みの間は美容室に行かなかった。そこで私は、夏休みの間あまり美羽に会わなかったことに気づいた。正確には、気づいていた、のだが。
「そういう美羽は……焼けたわね」
「そう!」彼女は手を打って、ぱっと笑顔を浮かべた。「お盆の間、田舎のおばあちゃんの家に行ってね。海が近かったからそこでずっと遊んでたの」
「海、いいわね」
「綾香ちゃんは今年、海に行った?」
「ううん」
「そうなの……」
 美羽は小さく俯いた。「それなら、綾香ちゃんをおばあちゃんの家に連れていったら良かった」
「そこまでしなくても」
「だって私、綾香ちゃんと海に行きたかったのに」
 私は、言葉を失ってしまった。彼女のまっすぐさに、しばしば私は打ちのめされる。そのうちね、と、脳みそを搾り切っても言葉として出てきたのはそれだけだった。残りは、なり損ないの断片たち。蝉が鳴いているのが聞こえた。夏の残滓。彼女は、私がこれまでにどれだけノックアウトされてきたのかを、知っているのかしら。
 話題は夏休みの思い出(蚊とアイスクリームと流星群)から近頃の暑さへの文句を経て、来週に控えた実力考査についてぐちぐち言い合っている間に、私たちは目的の店へと着いた。午後の陽差しは熱烈で、じんわりと汗ばんでいた私たちに、空調の効いた店内は天国のように思えた。テーブル席がいくつか並んだだけの喫茶スペースには、ご老人のグループが一つと、それから私たちと同じ制服に身を包んだ男女のカップルが一組いた。
「珍しいね」
 美羽が私に耳打ちする。私たちはそのカップルから一番遠いテーブルに席を取った。すぐに、店員のおばさん(気の良さそうな人だった)がメニューとお茶を持ってきてくれた。お茶は適度に冷たく、私たちはそれで喉を潤しながら、メニューに目を通した。くずきり、羊羹、あんみつ……。普段和菓子などあまり口にしないものであるから、それらの単語はとても新鮮かつ魅力的で、メニューの上で踊る和菓子たちに私が翻弄されている間に、美羽はあっという間に注文の品を決めてしまっていた。
「私は、わらびもちにする」
 こういう時の美羽は早い。彼女はお茶を一口飲むと、いまだに決めかねている私を覗き込んで、「綾香ちゃん、食いしん坊さんだからどれにするか決められないんだよねぇ」とからかってくるのだった。
「別にっ、すぐに決められるけど」
「じゃあ、何にするの?」
「……くずきり」
 ここは涼やかに行きましょう、という美羽の言葉が思い出されて、私はメニューの中で一番涼を感じさせるものを選んだのだった。
 気の良さそうなおばさんを呼んで、わらびもちとくずきりを注文する。おばさんは私たちの注文を確認すると、
「今日は若い人が多くて嬉しいわねえ。今日は、学校は?」
「午前中でおしまいでした」
 美羽が応える。そうなの、いいわねえ、とおばさんは言うと、私たちの湯のみを覗き込んで、おかわりを持ってくるわね、と踵を返した。湯のみにはもうほとんどお茶は残っていないのだった。気恥ずかしくて、私は美羽と目を合わせて、一緒に苦笑いを浮かべた。
 店内には、ご老人グループの楽しげなおしゃべりが響いていた。その奥にいる、もう一組の『若い人』らは何を話しているのだろう、二人はにこやかに笑い合っていた。見覚えのない顔であるので、先輩か、後輩か。
「そういえば律子ちゃん、隣のクラスの人と付き合ってるんだって」
 私の視線を追ったのだろう、美羽は突然にそんなことを言い出した。律子ちゃん、というのは私たちのクラスメイトで、特に美羽と仲が良い子だ。セミロングの、活発そうな子だった。
「何て人と?」
「そこまでは覚えてないや」
「ふうん」
 夏休みも終わって、世間は色恋沙汰に溢れている。夏が恋の季節だなんて、一体誰が決めたのだろう。おばさんがお茶のおかわりを持ってきてくれて、私はそれをぐいと煽った。
 まもなく、わらびもちとくずきりがやって来た。氷の上に添えられたくずきりはつやつやとしていて、黒蜜を絡めて口の中に含めば、奥ゆかしい甘さと黒砂糖の風味で、私はあっという間に幸せになった。美羽のわらびもちも、きなこがふりかけられていて、品が良く美味しそうだった。
「たまには和菓子も良いわね」
 私の言葉に、美羽は大きく頷く。私たちのおやつのレパートリーに、晴れて和菓子が仲間入りした日だった。
 一度お互いの食べているものを交換して、私たちはあっという間にそれらを食べ終えてしまった(わらびもちもまた美味しかった)。お茶を飲んでふうと一息。そこで私は、美羽の唇の端にきなこがついているのを発見した。呆れて、思わず笑ってしまうと、美羽は怪訝そうに首を傾げた。
「あんた、口にきなこがついてるわよ」
「うそ」
「本当」
 美羽は慌てて口の横を拭おうとして、そこでぴたりと動きを止めた。突然にその目がらんらんと輝きだして、これはろくでもないことを考えているな、などと思っていると、
「ねえ、綾香ちゃん」
 猫なで声である。
「綾香ちゃんに、口元のきなこ、とってほしいなあ、なんて」
「嫌だ」
 私の返答に、彼女は不服そうに頬を膨らませた。「綾香ちゃんってば、つれないんだから」
「ごっこ遊びが嫌いなだけよ」
 気づけば、ご老人の集団もカップルもいなくなっていて、店内には私たちだけが残されていた。美羽は「ふうん」と、私をじっと見つめる。私はその視線から逃れるように、湯のみを手にしてお茶を飲んだ。時刻は午後三時を少し回ったところ。壁掛けの時計がそれを示していた。
「……そろそろ出ようか」
 私は鞄を手にして立ち上がる。美羽も緩慢な動作で私に続く。お会計を済ませて店外へ。おもては依然として暑く、熱光線がじりじりと地面を焦がしていた。並んで歩き出したところで、美羽がぼそっと言った。
「私は、ごっこじゃなくてもいいのに」
 私は、思わず隣の彼女を見た。美羽もこちらを見ていて、視線が交錯した。私は言葉を忘れた。歩くことも忘れた。わずかに西に傾き始めた太陽が、私と美羽の頬を燃やしていた。私は彼女の表情から、冗句の色を読み取ろうとした。しかしできなかった。彼女の目はいつになく真剣で、じっと、自分自身の言葉で打ちのめした相手を射抜いているのだった。
「……美羽」
 彼女の口がゆっくりと動き出す。私はその瞬間、ほとんど本能的に、やられた、と直感したのだった。ぱっと、美羽の表情が悪戯めいたものに変わって、その口は、
「——なんちゃって!」
 そんな言葉を発したのだった。
「……あんたねえ」
「綾香ちゃんってば、雰囲気に飲まれすぎだよ」
 彼女はくすくすと笑った。悪戯っ子め。そして、演技派。私はまんまと一杯食わされた、という訳だった。あーおかしい、なんて笑い続ける彼女を置いて、私は早足で駅へと歩き出す。
「あっ、綾香ちゃん、待ってよ」
「絶対に嫌」
「ちょっと、ねえってば——」
 私の背中を追いかける声。絶対に、歩みを緩めるものか。吹きつける風は熱く、どこかでちりいんと風鈴が鳴っているのが聞こえた。
 夏はもう少し、続くように思われた。

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