ジンジャーエール、または夏の終わり

 「遠くへ行けたら」なんて、安っぽいロマンティシズムはやめて。
 私は喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、隣に座る薫を見やった。少なくとも、彼女にはこの夜が永遠に続くように思えるらしいのだった。幸せ者だ。そしてその幸せはひとえに、アルコールによってもたらされたものだった。彼女の手の中、ビールの缶が月明かりを反射して銀色に光った。
 海を臨む公園には、八月の潮風がそよそよと流れ込んでいた。薫の長い髪が柔らかに揺れる。それに合わせて、水面もゆらゆらと揺れている。どこかで大学生が花火でもしているのだろう、時折賑やかな声が私たちのところまで届いた。私はどこかぼうっとする頭で、大学一年生の——順当に行けば二年後の——薫を思い描いてみる。背は今よりも少し伸びているだろう。身体つきに関しても、今はスレンダーな体型の彼女であるが、その時にはもう少し発育しているかもしれない。二年後、薫はどこにいるのかしら。そして私は。海辺の公園で、夜中に花火などやっているのかしら。
「ねえ、私の話ちゃんと聞いてる?」
 薫の声に、はっと現実に連れ戻される。彼女は非難がましい目で私を覗き込んでいた。その頬がほんのり紅潮しているのが、うす暗がりの中でも分かった。
「聞いてるよ」
 本当かな、と薫は小さく呟いて、缶ビールに口をつける。一方の私が手にしているのはチューハイの缶だった。私は彼女の真似をして、チューハイを一口飲む。甘いりんごの味、炭酸が口の中でしゅわしゅわと弾ける。私の頬も、お酒のために赤くなっているのだろうか。私は自分の手を、薫の頬にぴたりとくっつけてみる。
「なあに」
「薫、赤い顔してるから。熱いのか確かめたくて」
 私の言葉に彼女は笑った。触れた頬はわずかに熱を持っていたが、普段と大して変わらないような気もした。薫は私に顔を向けると、
「史夏も、赤い顔してるよ」
「やっぱり?」
 体がふわふわとする感覚があった。お酒を飲んだのはこれが初めてだったが、妙な浮遊感と体の火照りは気分のいいもので、これなら父親が毎晩、晩酌と言ってお酒に手を出すのも納得するというものだ。
 薫が私の手を取った。光源は半分の月と、星々だけだった。都会の夜空にはこんなに星は浮かんでいないのだろうな、と考えると、久しぶりに星々の温度のない光に祝福された薫が思わずロマンティストになってしまうのも、無理ないのかもしれない。彼女の手は温かった。同じ温度だね、と薫は言った。私は彼女の肩に頭を預けた。どうしたの、と薫の柔らかな声が降ってくる。彼女の髪の匂いが鼻腔をくすぐる。薫は私の家で、同じシャンプーを使って髪を洗っているはずなのに、その匂いは私のものとは全然違った。私の髪は、こんなにいい匂いはしない。
「ちょっと、眠くなっちゃった」
「お酒のせいだ」薫は笑った。「そろそろ帰る?」
「まだだめ」
 私は携帯電話を取り出して時刻を確認する。お母さんが普段床につく時間までは、まだ一時間あった。お酒を飲んで、二人して赤い顔で家に帰ろうものなら、何と言われるか分かったものではない。お叱りを回避するためには、お母さんが眠ってしまってからこっそり帰る他ないのだった。

     *

 アイスカフェオレのグラスに手を伸ばすと、それはすっかり汗をかいていて、私は閉口してしまった。読みかけの本を濡らしてしまわないために、鞄からハンカチを取り出して、手についた水滴を拭う。その際に、私のすぐ隣で、数学の問題集とにらめっこをしている史夏の姿が目に入ってきた。その眉根には深い皺が寄っていて、思わず笑いそうになってしまう。
「苦戦中?」
 そう尋ねると、史夏はすっかり困り切った表情を私に見せるのだった。
「……どうしよう、虚数なんて全然分からない」
「ほら、どこが分からないの」その捨て犬みたいな顔に、今度は少し笑ってしまった。「教えてあげるよ」
 私たちは夏休みの宿題に立ち向かうために、駅前のカフェまで来ていた。これだけ聞くといかにも優等生的であるが勿論そういうわけではなく、この夏を満喫するために、心の重荷を早いうちに下ろしてしまいたい、というのが本音だった。それに史夏と一緒ならば、並んで課題に取り組むということさえも、夏を構成するイベントの一つになってしまう。二人で一緒にいるのに、お互いの意識は別々のところにあって、しかしそれでも私たちは一緒にいる。隣にいる史夏の息遣いを感じながら本のページをめくる、その時間が私には心地よかった。
 店内にはごきげんなピアノジャズと、喧騒があった。夏休みという期間だけあって、若く弾んだ声が目立つ。私とひとつ席を空けて座る二人の女の子も——おそらく中学生だ——、野菜サンドを片手に、次はどこに行こうか、などとはしゃいでいるようだった。
「うー、遊びたい」
 史夏が呟くように言う。私は彼女の問題集を覗き込みながら、
「じゃあ、三時になったらどこか行こうよ」
「本当! 私、行ってみたいお店あったんだ」
「それまでは、ちゃんとやろうね」
「お互いにね」
 私は苦笑を返す。私たちは、お互いに一番苦手な課題から片付けよう、という取り決めを交わしていた。史夏にとってそれは数学の問題集で、私にとっては読書感想文であった。
 史夏のつまずいた問題を、私は解説しはじめる。数学は中学生の頃から私の方が得意だった。史夏は私の説明を、頷きと質問を交えながら聞いている。これも、中学生の頃と変わらない。しかし目の前の史夏はもはや高校生だった。あの時と比べて、史夏はずっと大人びた。
「——薫?」
 気がつけば、史夏が怪訝そうに私を見ていた。
「あ、ごめん。ぼうっとしてた」
「こら。私に教えてる最中でしょ」
 一通り要点を説明し終えると、史夏は「今なら全部解ける気がする」と言って、再び問題集に向き合いはじめた。私も読書を再開する。その時、背後から史夏を呼ぶ声がした。史夏が振り返り、私もそれに倣う。
 そこには、私の知らない女の子がいた。おそらく史夏の同級生だった。彼女は私に一瞥くれてから、
「なあに、宿題しているの」
 と、史夏に親しげに話しかけた。うん、数学、と史夏が答えたとき、男の子の声が飛んできて、その子はそちらを振り返った。
「ごめん、行かなきゃ。またね」
 彼女は踵を返して、それから彼女を待つ男の子二人、女の子一人のグループの方へと早足で向かった。ゆるくパーマのあてられた茶髪が、足の動きに合わせて踊った。
「一年生のとき仲が良かった、すみれって子」史夏が私に説明してくれる。「今は、クラスが別になっちゃったけど」
 私は、そうなんだ、としか返せなかった。

     *

 チョコバナナ。
 その文字に目を引かれ、はたと足を止める。薫も食べたいかしら、と振り向けば、彼女は私が立ち止まったことに気づいていないようで、どんどんと先へ歩いていってしまう。
「薫っ」
 声を張るが、薫には聞こえなかったようだ。なにせ今日は花火大会、私たちは人混みに埋もれ、人々の話し声は無数に重なり合わさって壮大な雑音を成している。私は早足でどうにか薫の背中に追いつくと(浴衣はとにかく動きづらい)、彼女の手をぐいと引っ張った。驚いたようで、薫はわっと声を上げてこちらを振り返る。
「ちょっと、なんで先に行っちゃうの」
「あ……ごめん、気づかなくて」
「私、走れないんだから」
 そう言って足元の下駄を示してやると、薫はそうだったね、と苦笑した。そんな彼女はTシャツにジーンズという極めて軽快な服装である。
 私は薫の手を取って、チョコバナナの売店まで戻る。私も食べたい、と薫が言うので、五百円玉を一枚出して、百円硬貨一枚と二本のチョコバナナを受け取る。はい、と一本を手渡して、私たちは同時にバナナにかぶりつく。ぬるいチョコレートとバナナの甘み。
「お祭りの味」
 薫の言葉に、私は大きく頷いた。
 私たちはチョコバナナ片手に歩き出す。あたりは宵闇に包まれて、夏の空気はうっすらと紺色に染まる。その空気の一粒一粒、下駄の立てる硬質な足音、どこかで鳴いている蝉の声、それら全てが夜空に咲く花を待ちわびている。打ち上げ時刻まで、あと三十分ほどだ。私たちはそれまでに、河川敷の花火会場までたどり着き、二人分のレジャーシートを広げるだけのスペースを見つける必要があった。
「それにしても、」水色のバナナを一口かじって、薫は言った。「すごい人だね」
「来るの初めて?」
「うん。史夏は?」
 私は遠い記憶を引っ張り出して答える。
「一回だけ……小学生三年生の時かな。家族みんなで」
 あの時は大変だった。あまりの人混みの激しさに、一年生だった冬斗が大泣きしてしまい、しかしお父さんもお母さんも人混みに飲まれないよう必死で冬斗まで手が回らず、結局私があやしたのだった。左手をお母さんに引っ張られ、右手では冬斗の手を掴みながら、まだ小さかった弟を必死になだめすかした。私だってできることなら泣きたかった。しかしすっかりお姉さんだった私は、これ以上お父さんとお母さんを困らせないために、しっかりその役割を果たしたのだ。
 私の話に薫は笑った。
「冬斗くんにもそんな時期があったんだね」
「本当だよ」
 今はすっかり生意気な弟である。
 会場に着く前に、薫の要望でたこ焼きと焼きそばの屋台に寄った。その頃にはチョコバナナも食べ終えていて、すっかり口の中が甘くなっていたのだ。
 河川敷は大変な混雑だった。私たちのようにくつろげるスペースを探す人たち、あるいは仲間のレジャーシートのところへ向かおうとする人たち、屋台へ買い出しにいく人たちと帰ってくる人たち、立ち話をする人たち、私たちはその人波にもみくちゃにされながら、シートとシートの間の狭い通り道を進んだ。薫が私の手を取った。もう間もなく打ち上げというところで、どうにか空いた場所を見つけ、シートを広げて腰を下ろした。
「はぐれなくて良かった」
 薫が焼きそばの入ったパックを開けながら言った。たこ焼きを一つ口に放り込んで、私は先ほどの薫の手の感覚を思い出してみる。
 鞄の中のお茶を取って、と薫にお願いしたところで、花火が打ち上がった。空気を震わす轟音が響いて、光が夜空を切って、ぱっと一瞬の花が咲く。そして人々の歓声。薫が私にお茶を手渡しながら、私も浴衣を着てくれば良かった、とぼやいた。元々花火大会に行く話などなかったので、都会から持ってきた荷物に浴衣は入っていないのだ。
 来年は、と言いかけた時、二発目の花火が上がった。火花が散って、薫の横顔が明るい色に照らされる。綺麗だ、と思った。

     *

 その計画の立案者は、史夏だった。共犯者がいれば怖いものなし、ということなのだろう。
 私は彼女の計画を聞いて、はじめは反対した。なぜなら未成年の飲酒は、法律に触れたり、触れなかったりする。しかし私だってお酒というものに興味がないわけではないし、史夏があまりに熱心なものだから、最後には折れた。
 夕食後、史夏のお母さんがお風呂に入ったタイミングで私たちは冷蔵庫を漁る。あまりたくさん持ち出すと悪事が露見してしまうので、遠慮してビールとチューハイの缶を一本ずつ拝借した。コンビニの袋のなかにその二本の缶を入れて、私は先に家を出る。史夏には、お風呂の最中のお母さんに「ちょっとコンビニに行ってくる」と嘘をつく仕事があった。
 おもては湿気が多く、じめじめとした空気が肌にまとわりついたが、気分の高揚した私にはまったく不快でなかった。見上げれば、都会では見えない多くの星が呼吸するように瞬いている。間もなく史夏が出てきて、指でオッケーサインを作った。私たちは声を殺して笑って、それから並んで歩き出した。首尾は上々。
 少し歩くが、海辺の公園まで行こうという話になった。あとでお母さんにメールしないと、と史夏が言った。ちょっとした距離なんてまったく厭わない。なにせ私たちは気分が良かった。右手にぶら下げた七○○ミリリットルの重みが私たちを強気にさせていたのだ。
「いけないことだね」
 史夏は可笑しくてたまらないといった口調だ。私も浮ついた声で、
「そうだね、見つかったら怒られちゃうね」
 楽しくて仕方がなくて、私は笑った。史夏も笑った。しんと静まり返った住宅街に、二人の笑い声が弾んだ。私たちは、立派な不良少女であった。
 星を数えながら夜道を行けば、やがて公園が近づいてくる。私たちは海に臨むベンチに腰をかけて、持参したコンビニ袋から例のブツを取り出した。青白い月明かりに照らされて、二本の缶はそこにあった。史夏と目を合わせる。ごくり、と唾を飲み込んで、史夏はチューハイの缶を、私はビールの缶を手に取る。プルタブを開けると小気味のいい音がして、その音が、例えばお父さんがお風呂上がりにビールを飲もうとして缶を開ける時とまったく同じ音であったので、私はにやついてしまった。
「それじゃあ、私たちの記念すべき初飲酒に」
 乾杯、といって私たちは缶を軽くぶつけた。一連の私たちの悪事は、夜空に浮かぶ月と星々だけが知っている。

     *

 遠くで私を呼ぶ声が聞こえていた。史夏、史夏——薫の声だ。続いて体が揺さぶられる。ゆさゆさと、結構容赦がない。なんなの、と私は抗議する。しかし、それはちゃんと発音されていなかったのだろう、くすくすと笑い声が聞こえてきた。頭に来たので、私は何とか目を開こうとするが、まぶたは鉛のように重く、それは叶わなかった。声帯周辺の筋肉も含めて、体が思うように動かない一方で、聴覚だけはしっかりと機能している。寝起きだ。ぼんやりと、死ぬ直前もこんな風なのかしら、と考えてみる(臨終に際しては聴覚が最後まで機能する、という話を聞いたことがある)。私は三年前に亡くなった祖母のことを思い出していた。彼女は重い肺炎だった。私はいまだに、祖母がどこかでひっそりと生きていて、そのうち私たちの前に姿を現わすのではないか、と思っている。目の前で確かに、医師が彼女の死亡を証明してみせたのに。火葬場で肉を焼かれ、骨だけになった姿を見たのに。私にはまだ、死というものがよく分からない。
 ようやく体の自由が利いてきた。私は重たい体を起こして、ベッド脇に立つ薫を睨んだ。
「朝ごはんだって、おばさんが」
「……ありがとう」
 彼女はもうパジャマ代わりのジャージから着替えを済ませていた。布団も既に畳んである。私も早くベッドを抜け出して、着替えて、顔を洗わなくてはいけない。しかしベッドから足を下ろしたところで、昨晩の記憶が途中からないことに気づいてしまった。
「ねえ、薫」
 部屋を出て行こうとしていた薫を呼び止める。「昨日、私って……?」
「公園で寝ちゃったんだよ。帰ってきたの、覚えてない?」
「うん……。薫が運んでくれたの?」
「うん」
「そっか、ありがとう」
 気にしないで、と薫は手を振って、部屋を出ていった。さて、私はベッドを抜け出して、パジャマのボタンに手をかける。そこで私は、自分がしっかりとパジャマを着ていることに気づき、顔から火の出る思いをした。
 階下に下りて、顔を洗ってからリビングへ行くと、薫とお母さんは既に席についていた。時刻は午前九時で、お父さんは百年前に出社している。冬斗の姿はなかったが、おそらく部活の朝練だろう。薫の隣に座って、彼女を思い切り睨みつけてやる。薫は私の視線に気づくが、とぼけるように首を傾げるだけだった。
「お寝坊さんね」お母さんがコーヒー片手に言う。朝食はお父さんと一緒に済ませたのだろう。「夜更かしするから」
 私たちは食事に手をつけた。バタートースト、ハムエッグ、トマトの入ったサラダにコーヒー。テレビは今日の天気予報を伝えていたが、聞くまでもない。窓から差し込む光はまだこの時間だというのに強烈で、今日もかんかん晴れ、真夏日になることは明らかだった。
 朝食が終わる段になって、
「お昼はうちで食べる?」
 とお母さんが尋ねた。頷くと、おつかいを押し付けられた。「リストをあとで渡すから、お願いね」
「はーい」
 私と薫は異口同音に応じる。薫は快活な様子で、私は気乗りしない口調で。日が高くなるにつれおもては暑くなる。早めに済ませてしまった方が良さそうだった。
 食事を終えて、部屋までの階段を上る途中、私は薫を詰問した。
「昨日、私が寝てる間に着替えさせた?」
「い、いや。着替えだけさせるために、一回起こしたんだよ。覚えてない?」
「……覚えてない」
「眠そうだったもんね」
 私は薫の言葉を信じることにする。その方がおそらく、お互いに幸せだ。
 それから私たちは順番にシャワーを浴びて、髪を乾かし、外に出る仕度を済ませて、おつかいへ出た。おもては予期していたよりもずっと日差しが強く、日焼け止めを塗ってくるのだったと後悔した。蝉がせわしなく鳴いていた。
「暑いねえ」
「ほんとだね」
 スーパーまでの途上、歩道の端で蝉が一匹死んでいた。無様にひっくり返って、それは死んでいた。近々きっと蟻の大群が押し寄せて、その体の一部一部を引きちぎって、ばらばらにして、彼らの生命の糧にするのだ。夏は着々と深まっていく。ずっと今日が続いたらいいのに、と覚えず呟いていた。絵の具を原色のままに塗りたくったような青が、空一面に広がっている。日に日に濃くなる緑と、もこもこの入道雲。お盆を迎える前に、薫は都会へ帰ることに決まっていた。
 私の呟きは、おそらく彼女には聞こえなかった。
 スーパーに辿りついて、私たちはお母さんのメモを片手に仕事を済ませていく。卵、牛乳、そうめん(これはきっと今日の昼食だ)、安売りの豚肉、ヨーグルト——。私もよく来る店内を、薫と一緒に歩いているという新鮮さ。彼女は、カートを押す私を先導して、次はこれ、次はこれ、と品物をカゴに入れていく。私はその横から、ヨーグルトはこのブランドのものに決めてるの、とか、もっと見た目のいいものを選んできて、だの注文をつける。新鮮で、わくわくして、かえって少し悲しかった。
 ある時、薫がジンジャーエールのペットボトルをカゴに入れたので、
「それはリストにないよ」
 と咎めると、彼女は悪戯が見つかった子供の笑みを浮かべるのだった。
「帰りに飲もうと思って。ちゃんとお金は出すから」
 レジに並んでお会計を済ませて、品々をビニール袋へと詰め込む。袋二つ分になった荷物を、一つずつに分担して、私たちはスーパーを後にした。強烈な太陽の光に、一瞬目が眩む。冷房の効いた店内から一転して、私たちはコンクリも溶ける灼熱地獄へと放り出されたのだった。薫が早速ジンジャーエールを取り出して、蓋を開けた。
「史夏もいる?」
 そう彼女がペットボトルを差し出してくれたが、私はかぶりを振る。ウィルキンソンは、私には辛すぎる。
 薫はそれを美味しそうに飲んだ。私はそんな彼女を横目に、足取り重く帰路を辿る。蝉時雨は相変わらず激しく私たちに降り注ぐ。この一瞬が永遠になればいいのに、と幼い思考で願った。薫があと数日で帰ってしまう。私から、ずっと遠くへ離れてしまう。滞在を伸ばすのはどうか、と提案してみようかしら。しかし、お盆明けの夏休み後半から、薫は予備校の夏期講習を受けることになっていた。それにお盆になれば、私たち家族もここを離れて、親戚の集まりに顔を出す。薫の出立を引き止めて、それでお盆の間どうする。薫を親戚に紹介する訳にもいかない。
 どうしようもないくらいに、私は分かっていた。薫は帰ってしまう。私たちは蝉の亡骸を通り越す。日が高くなり、足元の影が短くなってくる。
「ねえ薫」
「なあに」
「今日は、一緒に家でゆっくりしたい」
 私たちはきっと、ソファに並んでテレビを見たり、お喋りをしたり、あるいは昼寝をしたりするだろう。薫はペットボトルから口を離して、いいね、と言ってくれる。その手、その唇、その髪、それらが永遠のものでないことを、私は痛いくらいに知っている。

     *

 気がつくと私に寄りかかる史夏は穏やかな寝息を立てていて、私は慌てて彼女の肩を揺すった。
「ね、史夏。まだ寝ちゃだめだってば」
 そして軽くその頬を叩く。これから家まで帰らなくてはいけないのに、こんな真夜中の公園で眠られては困ってしまう。しばらく続けていると、彼女は小さく、ううんと呻いた。そしてその目が薄く開かれる。
「あれ……ごめん、私……」
「起きられる?」
 尋ねると彼女は小さく頷いて、ゆっくりとベンチから立ち上がろうとする。しかし夢うつつなのだろう、彼女の両足はその体重を完全には支えられず、体が左にぐらりと傾いだ。私は立ち上がって、彼女を支える。平気、と聞くと、史夏はごめんと小さな声で返した。
「そろそろ家に帰らないと」
「うん……」
「一人で立って歩ける?」
「うん……」
 彼女は今にも眠ってしまいそうで、一人で歩くなど到底できないように見えた。お酒め。アルコールめ。私は数時間前の自分を呪いつつ——あそこで彼女に反対しておけば——、史夏をベンチに座らせる。時刻は零時を回っていた。私もそろそろ眠くなってきたし、あまり遅い時間になると夜道は怖い。私は彼女に背中を向けて、しゃがみこむ。
「ほら、史夏。背中貸してあげるから」
「ごめん……」
「いいって」
 史夏がゆっくり、私の背中に体重を預ける。Tシャツ越しに、彼女の熱を感じる。私はにわかに血流が早まったのを自覚し、これはアルコールのせいだ、と自分に言い聞かせた。しかし史夏の腕が私の首に回って、彼女の吐息を耳元で感じるようになった時には、もはやその言い訳は通用しなかった。
 ゆっくりと立ち上がる。夜風が火照った頬を冷やす。史夏が小さな声で、ごめんと言った。私は、平気だよと返す。そして、史夏が太っていないことに大いに感謝した。
 史夏は家までの道中ですっかり眠ってしまった。その規則正しい呼吸が私の耳をくすぐる。星々が照らす夜道には、私の足音と史夏の寝息だけがあった。時折風がふわりと立って、私と史夏のむきだしの首のあたりに絡まって、するりと抜けていった。私はやはり、このまま遠くへ行けたら、などと思うのだった。
 やがて史夏の家が見えてくる。史夏の両親は、零時過ぎには就寝しているのが常だったので、この姿を見咎められる心配はほとんどなかった。私たちは門をくぐって、玄関戸の前までやってきて、そこで私は、はたと気づく。つまり、史夏の足を持つので両手がふさがっていて、家の鍵を開けることができないのだ。そもそも家の鍵は史夏の鞄の中に入っていて、まずそれを取り出さなくてはならない。
「史夏、史夏っ」
 私は極限まで抑えた大声で彼女を呼ぶ。その体を揺らす。しかし史夏の眠りは深い段階にあるようで、起きる気配はほとんど無いのだった。私はめげずに続ける。体を揺すり、史夏を呼び続ける。その時、かちりと金属質の音がして——もちろん、家の鍵が開けられる音だ——目の前のドアが小さく開いた。そして、その隙間から見覚えのある顔が覗いた。
「あの……何してるんすか」
「冬斗くん」
 願ってもない幸運! 私は彼の完璧な間の良さに感謝しないではいられなかった。
 冬斗くんにドアを開けてもらい、私たちは家の中へと入る。史夏の両親は予想通り、もう寝室に下がっているようだった。寝る前に水を飲もうと階下に来たら、外から不審な声がするので様子を見にきた、という冬斗くんの話を聞きながら、私はどうにか階段を上りきり、史夏の部屋に入り、彼女をベッドに横たえて大きく息を吐いた。史夏の寝息は穏やかなままで、私はおかしくて笑ってしまう。枕の上で乱れているその髪を整えて、それから彼女の額に触れた。
「姉ちゃん、どうしたんすか」
 部屋の扉の隙間から、冬斗くんがこちらを窺っている。私は史夏の額から手を離して、遊び疲れて寝ちゃったんだ、と大して上手くない嘘をついた。彼は多少訝しんだようだったが、特に追及はせず、おやすみなさいと私たちに告げて扉を閉めた。
 私は大きく伸びをしてから、自分の寝床を整える。布団を広げて、シーツをかぶせて、枕を置く。それからジャージに着替えて、そこで史夏にも着替えをさせたほうがいいのかしら、と思い当たった。すやすやと眠る史夏の傍へ寄って、その頬を軽くつねる。
「ほら、史夏。パジャマに着替えましょ」
 彼女が、その深い眠りから覚めてくれるといいのだけど。

     *

「それにしても、薫ってば」薫の消えていったお手洗いの方向をちらりと見て、志保が言う。「なんだか、綺麗になったよね」
「都会、おそるべし」と凛。
「もしかして、彼氏ができたのかも」と軽い口調で彩乃。
 私はその単語に驚いてしまう。「彼氏!」薫に彼氏だなんて。
「都会の女子高生って、恋人の一人や二人、当たり前なんでしょ」
 志保は面白がるような口調だ。「私たちの知らない間に、薫だって……」
「二人いたら犯罪だよ」
 彩乃が笑いながら言って、横から凛が「犯罪ではないけど」と口を挟む。しかしそんなことはどうでもいいのだ。
 薫に彼氏だなんて。
 あり得ないことではなかった。薫がそんな様子を全く見せないものだから、すっかり彼氏などいないものと思い込んでいたが、完璧な確証はない。薫の口から直接、彼氏がいないという話を聞いたことはないのだ。
「史夏ったら、どうしたの」志保の言葉で、私は顔を上げる。彼女はにやにやと口元を歪めている。「さっきから静かになっちゃって」
「別に」
 狼狽などしていない私はアイスコーヒーに手を伸ばして平静を装う。薫に彼氏がいたとして、それは少しも、慌てふためくべきことではない。親友に恋人ができたのだから、心から祝福してあげるのが友情というものだ。
「やきもちかな」
 彩乃が私を覗き込んで小さく笑う。
「二人、ずっと仲良しだったもんね」凛が昔を懐かしむように目を細める。
「そもそも、彼氏がいるって確定したわけじゃないでしょ」
「何の話?」
 薫の声。私は飛び上がりそうになる。振り返れば、そこにはお手洗いから帰ってきた彼女の姿があった。
「えーと」
「私も行こうっと」
 志保が立ち上がって、足取り早く席を離れる。私が睨むと、彼女は軽く肩をすくめてみせた。逃げ足の早い奴。
 薫は私の隣に腰を下ろして、ジンジャーエールのストローをくわえる。
「彩乃の話してたの」とにかく、怪しまれる前に何か言わないといけない。「彩乃の、彼氏の話」
 彩乃がぎょっとして私を見る。私はウインクを返す——今度購買のパンを奢るから、なんとかうまく立ち回ってください。
「えっ、彩乃って彼氏できたの?」
 薫は心底驚いたようだった。それもそのはず、つい十秒前まで本人さえ知らなかった情報なのだ。彩乃は目をきょろきょろと泳がせて、
「い、いや、えーとね」
「彩乃に彼氏ができたら、どんな人だろうねって話をしてたの」凛が助け舟を出してくれる。「一緒にスポーツできる人がいいって、ね」
 彩乃は大きく頷く。購買のパンは、凛に進呈することにしよう。しかし彼女は学校が別なので、パンを奢る機会はなさそうだった。
「そっか、彩乃って高校でも陸上だっけ」
「そうそう、やっぱり運動できる人がかっこいいかな、って」
「部活にいい人いないの?」
「うーん、全然」
 ごく自然な薫と彩乃のやりとりのなか、私は凛に目配せして感謝の意を表す。凛はそれに気づいて、眼鏡越しにウインクを返してくれる。
 志保が帰ってきたところで、話題はこれからの予定に移った。私は心底安堵する。あの場で、薫がお手洗いから帰ってきた場面で、正直に「薫に彼氏がいるかどうかについて、話してたの」と言うわけにはいかなかった。私は、それを絶対に避けなければならなかった。彼女がもし、「いる」なんて言ったら——私は、自分が薫の「親友」などではないと、気づいてしまうだろう。
 私たちはそれからカラオケに行き、夕食にハンバーガーを食べた。私は薫の顔を時々盗み見た。凛の歌を聴いている時の薫、あるいはマイクを握って歌っている時の薫、彩乃の冗談に笑っている薫、ハンバーガーにかぶりつく薫。「なんだか、綺麗になったよね」と志保は言った。私が一番分かっていた。中学校を卒業してから一年と四ヶ月、私の見ない間に薫はずっと大人びた。
 夕食を終えて喋りこんでいたら、時刻はいつの間にか午後九時を回っていた。そろそろ帰ろうか、と誰かが言い出して、私たちは解散した。また会おうねと手を大きく振って三人と別れ、私と薫は地下鉄に乗り込む。空いた席に並んで腰をかけて、「楽しかったね」と口を揃えて言った。
「みんな、変わったり変わってなかったり、だった」薫が少し遠い目をして言う。
「なにそれ」
「こうやって大人になっていくのかな、って感じ」
 私は薫の横顔を見る。
「そうかもね」
 その一言は、彼女にどう聞こえただろう。

     *

 昔の夢を見た。中学の卒業式の日の夢。

 正真正銘に最後のホームルームが終わったところで、教室は一気に賑やかになった。あちこちで、別れを惜しむ声、解放感からの喜びの声が聞こえ出して、私も仲の良かった級友たちと言葉を交わした。特に私は春から都会へ行ってしまうので、彼らの悲しみもひとしお、といったようだった。向こうでもきっと元気でね、お互いにね、ありがとう、と今生の別れの挨拶を済ませてから、私は廊下に出て四組の教室へ向かった。
 廊下でも多くの生徒が、卒業証書を片手に思い出を語らっていた。私は人波を縫って歩みを進める。廊下の窓は開け放たれて、薄日がぼんやりとリノリウムの床を照らしていた。
 四組はとうの昔にホームルームを終えていたようで、教室内に人はまばらだった。私は教室を覗き込んで、史夏の姿を探す。しかし見つからない。史夏の机の上には鞄と、卒業証書の入った黒い筒が置いたままになっているので、先に帰ったということはなさそうだ。誰かのところにいっているのかしらと思って、私はドアの近くにいた女の子二人を呼んで、史夏の行方を尋ねた。すると彼女たちは互いに目を合わせて、にやりと笑う。
「史夏なら、ね」
「ね」
「知ってるなら教えてよ」思わず棘のある声になった。
「安達に連れられて、ね」
「ね」
 安達、という名前には聞き覚えがなかった。どこに行ったの、とおそるおそる尋ねる。彼女たちはもう一度、いたずらっぽく目配せして、
「告白といったら、体育館裏が相場でしょうな」
「な」
「告白!」
 私は突然に、恐ろしくなった。
 私は彼女らにありがとう、とだけ伝えて、その場を離れた。廊下には相変わらず、柔らかな談笑、下級生も交えての涙しめやかな思い出話があふれていて、私は一人階段を上がる。告白というのは、どれほどの時間がかかるものなのだろう、とぼんやり考えてみる。もしも史夏が安達くんとやらの告白に対して、イエスと答えたならば、今日私は一人で帰ることになるのかしら、とも思った。
 三年生の教室は一階にあり、フロアを上がる毎に学年は一つずつ下がっていく。四階は音楽室や理科室、視聴覚室などの特別教室がまとまっており、そこまで来ると階下の喧騒も遠く、乾いた静寂がそこにはあった。私は人気のないフロアを当てどなく歩きながら、自分の足が無意識に、体育館裏から一番離れたところへ向かっていることに気づき、苦笑した。
 今すぐその体育館裏に駆けつけたい、と思ったのだ。「告白」と聞いたその瞬間、どろどろとした熱の塊が、旧知の仲といった顔をして突然目の前に現れたのだ。私はずっとここにいたのに、とその熱量は言って、私の心をどうしようもなく揺さぶる。駆けつけて、その告白を中断させてやりたい、という荒々しい感情。私はその激しさに、くらくらとしてしまう。恐ろしかった。一人になって、心を落ち着ける必要があった。
 ふと足を止めれば、目の前には理科室がある。妙に薬品くさく、設備も造りも特別なその教室を、私は密かに気に入っていた。入ってみようかしら、と思うが、今日は卒業式でこの部屋を使う予定などないのだから、当然鍵は閉まっているはずだった。だめで元々、私は理科室の扉に手をかける。
 中から、声がした。
 私は手を慌てて引っ込めて、化学部か何かがここを使っているのかしら、と思った。しかしそこで、——「体育館裏が相場でしょうな」——四組の彼女らの声が蘇る。ある直感。私は理科室の扉に耳を押し当てる。確かに声が聞こえる。くぐもって、話している内容はまったく聞き取れないが、男の声だということは分かる。一人で長々と、時折間をおいて、何かを話している。これが安達くんだ。私には完璧な確信があった。「でしょうな」だ。彼女らにしてみても、告白場所まで把握しているわけではなかったのだろうし、よくよく考えてみれば、体育館の裏に回るためには一度靴を履きかえて外へ出る必要がある。そんな面倒な場所を告白場所に選ぶだろうか。それを鑑みれば、校舎内で、なおかつ人が来るはずのない理科室というのは、合理的な選択に思えた。
 やがて声が聞こえなくなって、やや間があってまた別の人の声が聞こえる。今度は女性の高めの声。史夏だ。彼女が何か言って、そうしてまた間があって、ぱたぱたと足音が聞こえ出す。こちらに向かっている、と気づいて、私は慌てて扉から体を離した。
 直後ドアが勢いよく開いて、一人の男子生徒が姿を現した。ひょろりとして背の高い、眼鏡の男子。目がばっちりとあって、彼はいささか驚いたようだったが、すぐに顔を伏せて足早に立ち去っていった。私はその後ろ姿を見送ってから、理科室の中を覗き込む。史夏がそこにいた。彼女は机に寄りかかって、何かを手持ちぶさたにもてあそんでいる。
「史夏」
 声をかけて中に入ると、彼女は弾かれたように顔をあげて、
「薫……なんで?」
「いや、偶然通りかかって……」
「うそだ」
 笑った。史夏の右手にあるのは、鍵だった。明かりのついていない室内は薄暗く、窓から差し込む透明の光が、部屋のなかで舞い上がるほこりを照らしていた。
 怖いけれども、私には聞かなければならないことがあった。
「告白、どうしたの?」
「……聞いてたの」
「聞こえてた」
 彼女は笑って、
「断ったよ。もともとあんまり喋ったことなかったし」

「ちょっとっ……」
「……ごめん」
 どうしてか、謝罪の言葉が口を衝いて出た。気づけば私は彼女を抱きしめていた。私の中の熱がそうさせた。鼻を寄せたその髪から、遠い春の匂いがした。
 史夏の腕がゆっくりと私の背中に回って、そして私をばしん叩いた。そうして私たちは、しばらく抱き合っていた。言葉はなかった。史夏の熱、その息づかい、柔らかさ。
「——それと、」
「ん?」
 長い静寂の後で、私は史夏の耳元で小さく言った。「卒業、おめでとう」
 史夏は笑って、その振動が私にも伝わった。
「薫も、卒業おめでとう」
 そして私たちは卒業祝いの抱擁を解いた。キスの距離で目があって、照れ臭さにくすくすと笑う。
 ひとしきり笑った後で、史夏の手に持つ鍵について尋ねると、彼女は顔をしかめて、
「安達くんってば、ここで告白するために今朝職員室からこれを借りたんだって。忘れ物があって取りに行くって嘘をついて」
「ふうん。安達くんって?」
「化学部、だったらしい」
「なるほどね」
 史夏は鍵を持つ右手に目を落として、「安達くんすぐに行っちゃったし、私が返さないと。でも安達くんに貸した鍵が私から返ってくるって絶対変だよね。何か言われるかなあ」
「どうせ卒業するんだから」
「そうだけど……」
 史夏はため息をついて、それからその鍵を私に示した。「ちょっと付き合ってくれる?」
 日の光がその銀色に反射して、私はもちろんと言った。そして私は夢から覚めた。

 ゆっくり目を開けて、部屋の時計を見れば午前六時半だった。平和な鳥のさえずりを遠くに聞きながら、私はぼんやりと、夏休みにしては随分と早起きしてしまった、などと思った。もう一度目をつむって、寝返りを打ってみる。しかし妙に目は冴えて、眠気が訪れる様子はなかった。私は諦めて布団を抜け出すと、史夏の眠るベッドにそっと近づいた。彼女はまだ夢の世界にいるようで、穏やかな寝息を立てている。
 あの時の気持ちに、いつか決着をつけなければいけない日がくるのだろうか。私はいつかしたように、史夏の額に手を乗せて、それから彼女の髪を指で梳いた。あの日、あの瞬間に湧き上がった猛々しい欲求。火傷の熱量。私はいまだにそれを、自分のうちで持て余しているような気がしてならない。

     *

 新幹線がホームに滑り込んできて、風が起こる。薫の髪が大きく揺れて、私はそこに夏の終わりを見つけた。
 薫がゆっくりベンチから立ち上がる。そして私に向き直って、またね、と言った。行ってしまう。私も立ち上がって、何を言ったら彼女はここに残ってくれるだろう、と考えた。しかし全ての言葉は無力であることを私は知っていた。薫は今日、この緑色の新幹線に乗って都会へ帰ってしまう。
「薫」
「ん?」
「ハグしてもいい」
 そして薫の返事を待たないで、私は彼女の首にしがみついた。最後のプライドで涙は流さなかった。
「また、絶対に来るよ」
 薫が言った。私はかぶりを振って、
「次は、私がそっちに行くから」
「それもいいね」
「ちゃんと案内してよね」
 新幹線の扉が開いて、列に並んでいた人々が次々と飲み込まれていく。薫の手が私の頭に触れる。行かなきゃ。耳元で悲しい声がして、私は頷く。抱擁を解いて、そして薫は赤いキャリーバッグを引いて新幹線に乗り込んだ。
 発車のベルが鳴り始める。薫がこちらを振り返って、何かを言った。しかしベルの音にかき消されて、私には聞こえなかった。大きな声で聞き直すと、彼女ははにかんで、私に小さく手を振った。そして扉が閉まった。
 新幹線がゆっくりと動き始める。私は手を振り返した。次第に私たちの距離は離れて、そしてあっという間に、薫は見えなくなってしまった。最後のプライドで、彼女を追いかけるなんてことはしなかった。やがて新幹線は完全に視界から消えて、私はその場を離れた。
 その帰り道、道端に早咲きのコスモスを一輪見つけた。その花は少しきまりの悪そうに、けれどしっかりとそこに咲いていた。私は夏の終わりの空気をたくさん吸い込んで、帰りにジンジャーエールでも買って帰ろう、と思った。

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