ヨル毒

「ねえ、ヨル毒って知ってる?」
 美々子のその得意げな口調に、私はまたかと思わずにはいられなかった。ヨル毒。そんなものは見たことも聞いたこともないし、おそらく実在しない。美々子は噂話や都市伝説の類が大好物で、巷で聞きかじった話をこうして私に教えてくれるのが常だった。
 彼女のために、素直に知らない、と言うと、美々子はますます得意になって鼻を鳴らすのだった。「それじゃあ、流行に疎い蘭ちゃんに、私が直々に教えてあげよう」
 学校帰りの電車は、恵比寿・渋谷間にあった。夕暮れの時刻、制服姿の女子高生やスーツ姿のサラリーマン、これから街へ繰り出そうとする人たちで電車はまずまずの混み具合を見せていた。しかし車内に弾けた話し声などはなく、皆押し黙って、車輪の回る音、そして私たちの会話を聞いているようだった。窓から差す西からの夕陽が、そうした人たちの顔を真っ赤に染め上げていた。
「ヨル毒はね、致死性の毒なの」
 美々子の声が車内の隅々にまで響く。フグの毒に負けず劣らずの威力なんだって、と彼女は続ける。私はふうんと相槌を打つ。
「危ないじゃん」
「そう、チョー危ないの。しかもね、ヨル毒は身近なところに潜んでるの」
「どこに?」
 そこで美々子が私の肩に軽く触れる。彼女の大きな瞳が夕陽を映して赤く光って、私は少しだけ気味が悪くなる。
「……なに?」
「ヨル毒はね、皆の体の中に眠ってるんだって」
「えー……?」
「ほんとだって。それで、普段は眠ってるから無害なんだけど、時々暴走して、その人を死に至らせるの」
 原因が分からないのに突然死んじゃう人って結構いるでしょ。ああいう人たちの半分は、ヨル毒が原因で死んでるんだって。でも現代医学でもヨル毒のことはよく分かってないから、「原因不明」って言うしかないの。ね、これチョー怖くない?
 私が頷いたところで、まもなく渋谷に到着する旨を伝える嗄れたアナウンスが車内に流れる。隣の美々子はすっと立ち上がって、それから私を見下ろした。
「あれ、今日も塾だっけ?」
「うん。木曜日も通うことになったの」
「蘭も大変ねえ」
 ブレーキによって電車が止まる。ドアが音を立てて開いて、美々子は私に手を振って電車を降りた。ホームは混雑していて、背の低い彼女の姿はあっという間に人混みに飲まれ、見えなくなる。
 空いた私の隣に、スーツ姿の太ったおじさんが腰をかける。私は少し身を縮めて、それから小さくため息をついた。そして、私も美々子みたいに、まっすぐ家に帰れたらなあ、などと下らないことを考えた。実際、一年生の終わりまではそうしていたのだ。私と美々子は家が近所で、よく二人で下校してはコンビニに寄り道したり、あるいは夕食の時間になるまでおしゃべりをした。しかし今となっては昔の話。私の成績が、一年生の間ずっと中の中であったことが、お母さんには気にくわなかったようで、二年生の春から私は塾通いの身となった。週二回、数学と英語の授業を受けに新宿へ通ったが、半年間の努力の成果は思わしくなく(夏休み明けの実力考査で、私はお母さんの期待する点数を取れなかった)、この秋からさらに一日多く塾へ行かされることになったのだ。
 新宿に着く頃には、すっかり陽は沈み、外は真っ暗になっていた。私は人の海のなかで溺れそうになりながら改札をくぐり、塾までの道のりを歩く。おもてはすっかり秋の温度だ。ハロウィンがひと月後に迫った今、街角の雑貨屋さんなどはかぼちゃのお化けを模した小物を店頭に並べる。ケーキ屋さんもそう、秋限定の、栗をふんだんに使ったケーキを売り出している。そうした街全体の浮かれた景色に、私は体を小さくする。ますます冷たくなる秋風に吹かれながら、どうにもならない、とは知りながらも、沙里さんとこの街の中を歩けたら、と願った。
 私の意志などどこにもない連日の塾通いは、私にとって概ね憂鬱であったが、その暗闇の中にも一つだけ幸せの灯りがあった。それが沙里さんだった。直接言葉を交わしたことはなかったが、週に二度彼女を見かけては、私立高校の制服に身を包んだその人の美しさに私は惚れ惚れとした。
 彼女を初めて見たのは、夏休みが明けて、最初の講義の日だった。教室までの廊下をぼんやりと歩いていたら、その人とすれ違った。視界の端で黒髪が揺れて、私は何の気無しに彼女を振り返ったのだ。すると偶然にも、その人もこちらを振り返っていた。目が合って、彼女はにこりと微笑んだ。その髪、眉、目、鼻、唇の形、顎のライン、全てが均整を取ってそこにあり、その人の美しさを形作っていた。雷に打たれたみたいだった。あるいは、弓矢に心臓を射抜かれたような。私はあまりの衝撃に、その人が行ってしまった後も、すぐにはその場から動けなかった。優しく唇を持ち上げるその微笑が、何回も頭の中に蘇った。私ははっとして、彼女を慌てて追いかけて、そしてその人の入っていった教室を確認した。後で時間割表を見て、その時間のその教室では、高校一年生向けの授業が行われていることを知った。
 その日私は数学の授業を受けたが、その内容はちっとも頭に入ってこなかった。板書をノートに写そうと思っても、先ほど出会った綺麗な人のことばかりが思い出される。あの完璧な微笑み——あれは、私に向けられたものなのだ。それだけで体がかあっと熱くなって、机に向かいながら一人身悶えた。もう一度あの人に会いたい、いや、きっと会わなくてはいけないのだ。
 その日から私の生活に、希望の光が灯された。その人の名前を、沙里さんといった(彼女が友人らしき人からそう呼ばれているのを聞いたのだ)。沙里さんを見かけるのは決まって月曜日だったので、私はその曜日に限って、早めに塾に着くようにし、彼女の面影を求めて廊下をうろうろと歩いた。運が良く、廊下で見かける日もあれば、そうでない日もあった。そうでない日には、私は自分の授業が終わった後で、一階のロビーのところで沙里さんが下りてくるのを待った。高校生の授業は、中学生のそれよりも三○分長く設定されているので、ビルの出口に通じるロビーで待っていれば必ず沙里さんは通りかかる。私は、彼女の美しさを一目見ないと我慢ならないような体質になってしまった。しまいには、廊下で見かけた日にも、必ずロビーで彼女を待つようになった。一目見るだけでは物足りなくなっていたのだ。
 そんな私に、秋からの木曜日の塾通いは、完全な幸運だった。なぜなら、沙里さんはその曜日にも塾に来ていることが分かったのである。私は同様に、廊下をうろちょろとしたり、ロビーで時間を潰したりして、彼女を遠くから眺めた。いつの日も彼女は綺麗だった。季節が秋に移って、制服の衣替えがあった——その人の冬服姿も、やはり麗しかった。そして、沙里さんと同じ講義を受けている人はなんて幸せ者なのだろう、と羨ましく思った。だって、彼女のことを好きなだけ眺めていられるのだから。
 肌寒い空気を切って、私は塾に到着する。今日は木曜日、沙里さんがいる日だ。私はこの暗鬱の生活に彩りを与えてくれる彼女に感謝しながら、ビルの中へと入っていく。

     *

「蘭が一丁前に恋をするようになるとはねえ」
 学校からの帰り道、美々子は感慨深そうにそう言うのだった。一丁前にとは何よ、と文句を言うと、彼女は肩をすくめるだけだった。そもそも沙里さんへの感情はただの憧れであって、恋ではない、と訂正しようとも思ったが、きりがない気がするのでやめた。
 夕暮れの時刻で、茜色の夕日が美々子の二つ結びのおさげを明るく照らしていた。ひゅるりと吹きつける風は冷たく、私たちは体を小さくする。
「ね、今日は塾、ないんでしょ」
 私が頷くと、美々子はやったと声を上げて喜んだ。「帰りにおでんでも食べようよ」
「いいね」
 思えば、二人で過ごす放課後は久しぶりだった。塾のない日でも、私はお母さんに命じられて授業の予習復習をさせられたり、また美々子の方でも別の友達と遊んだりと、私の塾通いが始まってから、何となく距離が空いていたのだ。
 駅前のコンビニでおでんを買った。私は卵と大根とちくわ、美々子は卵とはんぺんと牛串だ。私たちは近くにあったベンチに座って、ゆっくりとおでんを食べた。
「私も牛串選べばよかった」
「今から買ってきたら?」
「美々子の一口ちょうだいよ」
「えー?」彼女は胸に手を当てて、いじわるな声を出す。「じゃあ、大根半分と交換ね」
 半分はさすがに欲張りすぎだ。私たちは協議の結果、大根の三分の一と牛串一口を交換することに落ち着いた。私は三分の一に切った大根を美々子のカップに入れながら、彼女を突っついてみた。
「ね、そういう美々子はどうなのよ」
「なにが?」
「恋愛の話」
「私? 私はねえ……」
 そこで彼女は、何やら意味ありげな視線を私に投げつける。「……内緒」
「もしかして……彼氏、できたとか?」
「ふふ、どうでしょう」
「どんな人か教えてよ」
「だから内緒だって」
 彼女はおでんの汁をすすって笑った。

     *

 美々子が死んだ。学校から帰ってきて、青い顔をしたお母さんにそう知らされた。しばらくの間、私はその訃報を信じなかった。だって、あの美々子が。ついこの間だって、あんなに元気だった。何かの冗談に違いなかった。確かに、今日学校では見かけなかったので具合でも悪いのかしら、と思っていたが、そんなのは、全然嘘だ。ありえない。
 しかし時間が経つにつれて、美々子の死はどんどん現実味を帯びてきた。お葬式の日付が知らされる。お母さんが慌てて、自分の喪服をタンスの奥からひっぱり出す。お父さんが沈んだ顔で、私に「気を落とすなよ」と言ってくる。
「嘘だよ」
 私は言った。その言葉に、お父さんは悲痛そうな面持ちで、何も言わなかった。
 お葬式の日は、よく晴れた日曜日だった。私は喪服を着て、お父さんとお母さんと一緒にタクシーで斎場へ向かった。
「この度は——」
 受付のところで、二人が言葉尻を濁してそう言うのを、私はぼんやりと聞いていた。受付を済ませてから、私たちは美々子のお父さんとお母さんのところへ挨拶へ行った。一年生の頃はよく美々子の家に遊びに行っていたので、お母さんの顔は知っていたし、お父さんにも何度か会ったことがある。しかし、その日の二人はまるで別人のような顔をしていた。美々子を失った悲しみと、お通夜・お葬式の疲れからか、その顔には重く影が差していて、ひどく憔悴していた。この度は——と決まり切ったやり取りをした後で、美々子のお母さんが、
「来てくれて、ありがとうね」
 と私に言った。その声の痛々しさに、私は何も返すことができなかった。
 やがてお葬式が始まった。お坊さんが会場に入ってきて、お悔やみの言葉を少し話して、そして読経が始まる。喪主である美々子のお父さんから立ち上がって、お焼香を上げる。私はその間ずっと、正面に置かれた、美々子の遺影を眺めていた。彼女は冷たい花々に囲まれて、笑顔を見せていた。
 お父さん、お母さん、とお焼香を上げて、やがて私の順番が回ってきた。お焼香を上げるとき、棺に入った美々子の顔をちらと見た。彼女は綺麗な顔で、ちょっと見る分には眠っているようにしか思えなかった。しかしその顔の血の気のなさに、私は彼女の死を認めざるを得なかった。
 席に戻って、声を殺して泣いた。
 美々子は、私の一番の友達だった。一年生の春に彼女と知り合ってから、学校でも、放課後でも、頻繁に彼女と過ごした。噂話の大好きな、可愛い私の友達。もう美々子は、笑わないのだ。くだらない都市伝説を聞かせてはくれないのだ。
 読経が終わって、お坊さんの話や、喪主である美々子のお父さんの挨拶などがあった。それらが終わると、出棺となった。棺を霊柩車に運び入れる前に、棺の中の美々子に花を添えた。
「……ばかね、死んじゃうなんて」
 私は彼女だけに聞こえる大きさで、そう言った。
 そして美々子を乗せた霊柩車は行ってしまった。手を合わせてそれを見送って、お葬式は終わりになった。
 お父さんとお母さんに連れられて帰ろうというところで、私に声をかける人がいた。
「あの……」
 振り返れば、まとりちゃんがいた。彼女は美々子の幼馴染で、私も何度か会ったことがあった。私とは違う制服に身を包んだ彼女は秋のそよ風に吹かれて、その茶のかかった黒髪が揺れた。
「美々子ちゃん、本当に残念ですね」
「……そうだね」
 まとりちゃんは一歩、私に近づいた。そしてごくごく小さな声で、
「美々子ちゃんの死因、分かってないんですって」
 そう言った。そして、にやりと唇を歪める。「ちょっと、興味深くないですか?」
 そこで私は思い出す。この子も、美々子同様、噂話や都市伝説の類が大好きなのだった。
「ご存知ですか? ヨル毒の話」
「美々子から聞いたけど……あんな噂話、本気で信じてるの?」
「さあ」
 まとりちゃんは誤魔化すように笑う。そして、それではまた、と私たちに頭を下げて、去っていった。
 ヨル毒。
 帰りのタクシーの中で、私はその言葉を何度も反芻した。フグ毒にも匹敵する毒性。皆の体の中に眠っていて、ある時暴走して死をもたらす。医者も「原因不明」と匙を投げるしかない毒。やはり私には信じられない話だった。つまらない作り話にしか思えないのだった。
 しかし、そうだとしたら、美々子の死因はなんだったのだろう。彼女は綺麗な顔をしていたから、何か事故に巻き込まれたという訳ではなさそうだ。特別、体のどこかに異常を抱えていた、という話も聞いたことがないし、そんな様子も見たことはない。事故もない、病気もない、となると後は——。

     *

 翌日から、私は学校を三日間休んだ。その間、塾にも行かなかった。お母さんはあまりいい顔をしなかったが、食欲がなく、一日にゼリーを一つ食べるのがやっとといった私の様子に、何かお小言を言ってくるようなことはなかった。
 ずっと美々子のことが頭を離れなかったのだ。端的に言えば、彼女の死がショックだった。寝ても覚めても、美々子のことを考えた。二人で遊んだ楽しい思い出ばかりが蘇ってきた。彼女の軽口が恋しかった。
 三日もすればショックも多少は薄れてきて、私は学校に顔を出し始めた。木曜日の塾にも顔を出した。親友を亡くしたかわいそうな子、という情報が、私と同じ中学の子によって広められたらしく、塾で普段親しく話す友達もその日はあまり話しかけてこなかった。
 授業が終わった後、私はいつもの癖で一階のロビーにいた。ついさっきの授業ノートをぼんやりと眺めながら、沙里さんが通りかかるのを待った。美々子を失った悲しみは確かに私の中にあったが、それと同時に、沙里さんを一目見たい、という醜い欲求もまた私の中にあったのだ。三年の喪、という言葉があると国語の授業で習ったが、そんな高尚なことは私にはとてもできない。
 やがて高校一年生の授業が終わったようで、談笑しながらロビーを通り過ぎる制服姿が見え始める。そろそろかしら、と思っていると、沙里さんが姿を現した。普段から一緒にいる友人とおしゃべりをしているところだった。一週間ぶりに見る彼女は相変わらずの美しさで、私は小さくため息をついた。ロビーを照らす暖色のつまらない光も、彼女に当たれば意味が変わってくる。その全身から匂い立つ彼女の存在感を、壇上のスポットライトのように、はっきりと強調させるものになっている。この光は彼女のためだけにあるのだ、と思った。いや、この光、だけではない。この世に存在するありとあらゆる種類の光源は、全て、彼女の美しさを顕在化させるための舞台装置なのだ。
 そのように沙里さんに見惚れていると、ふと、彼女の視線が私の方へ向く。ぱっと目が合って、彼女がはっとした表情になる。どうしたのだろう、と疑問に思う間もなく、彼女は友人を置いて、私の方へと歩み寄ってきた。何か文句を言われるのだろうか、という不安が私に走る。遠くから沙里さんを眺めるという行為が彼女には不快で、気持ちの悪いのもので、このストーカー紛いの行為を止めるように言われるのだろうか——。
 沙里さんが目の前までやってくる。至近距離で見る沙里さんは、遠くから見ている時とは比べものにならないくらい、美しかった。沙里さんはゆっくりとその口を開いた。
「あの……蘭ちゃん、でいいんだよね」
「は、はい」
 沙里さんに名前を呼ばれて、私の心臓は大きく跳ねた。こんな、夢みたいなことがあっていいのだろうか。
 しかし、そう思うのはまだ早かった。沙里さんは、もっと夢のようなことを私に告げるのだった。
「あのね、噂話で聞いて、蘭ちゃんにこうして話かけるの、とても失礼なことだと思うけど……でも私、蘭ちゃんのことがすごく心配で。大事な友達が、その……死んじゃったって聞いて……授業が終わった後、蘭ちゃんがよくここでノートを広げて勉強してる姿を見かけて、偉いなあって思ってて、でもこの前の月曜日、蘭ちゃんいなかったから……ショックで寝込んでるんじゃないか、って心配で……蘭ちゃんのとは少し違うけど、私も似たような経験あってさ、すごく辛かったから。だからもし嫌じゃなかったら、蘭ちゃんの力になりたいなって思って……辛い気持ち、私に吐き出してくれれば少しは蘭ちゃんも楽になるかもしれない、って思って」
 美々子、死んでくれてありがとう。私はそう思わざるを得なかった。このために、沙里さんと私を結びつけるために、美々子は尊い生贄になってくれたのだ、とさえ思った。
 沙里さんは気恥ずかしそうに笑う。「ごめんね、全然言葉がまとまってなくて……。つまり、蘭ちゃんに元気になってほしくて、そのお手伝いをしたいってことなんだけど……もし迷惑じゃなかったら」
 私はほとんど泣きそうになっていた。憧れの人が、こんなに優しい言葉をかけてくれているのだ。私は頭を下げて、ありがとうございます、すごく嬉しいです、と言った。
「あ、そんな、敬語じゃなくてもいいよ」
「でも……」
「いいから、ね」
 沙里さんが優しく微笑んで、もう私はそうするしかなかった。その天使のような笑みも、女神様のように優しい言葉も、全部私に向けられたものなのだ。私だけに。そう思うと天にも昇る気持ちだった。
 沙里さんが振り返ると、もう彼女の友人の姿はなかった。沙里さんは彼女を呪う言葉を一つ二つ吐いて、それから私に笑みを向けた。
「ね、一緒に帰らない?」
 私は当然、二つ返事で承諾した。
 駅までの道を、沙里さんとお話をしながら帰った。私は極力歩くスピードを抑えた。沙里さんはそれに合わせてくれた。私はあまりに緊張して、ほとんど物を言えなかった。彼女の言葉、立ち振る舞い、全てが私の心を捕らえて離さなかった。
 帰りの電車も途中まで一緒だった。ぎゅうぎゅう詰めの電車の中、私の身体は沙里さんのそれに押し付けられた。「すごいね」という沙里さんの苦笑が頭の上から降ってくる。私は沙里さんの身体の柔らかさと、脳みそのとろけそうな甘い匂いで、それどころではなかった。
 渋谷駅で私は降りた。またね、と沙里さんが手を振ってくれた。私もそれに、手を振り返す。沙里さんがにっこりと笑って、そして電車は行ってしまった。
 沙里さんを思うと、胸が痛んだ。心臓が早鐘を打って、身体中が熱を帯びた。私はホームの隅の方で、自分を落ち着けるのにしばらく時間を使わなくてはならなかった。目をつむれば彼女の笑顔が浮かんできて、私はなんて幸せ者なのだろう、と恐ろしくなった。

     *

 それから、次第に沙里さんと親しくなっていった。私たちは連絡先を交換して、しばしばメッセージを送り合った。月曜日と木曜日には、待ち合わせて二人で塾から帰った。沙里さんは、色々なことを——例えば、休日の過ごし方だったり、高校で勉強している内容だったり、好きな音楽だったり、使っているシャンプーについて——教えてくれた。私もお返しに、自分のことを話した。好きな科目、嫌いな科目、学校でのこと、家族のこと。沙里さんは、自分の家族についてはあまり話さなかった。
「うち、あんまり上手くいってないからさ」
 駅で電車を待ちながら、沙里さんはそう言って力なく笑った。それは、沙里さんが初めて私に見せた弱みだった。彼女の抱える心の重荷を、私が軽くしてあげなければならない、そんな考えが私に湧き起こった。
「あの、もし何かあったら、私に話してください」
 その言葉に沙里さんは目を丸くした。私は慌てて、私じゃ頼りないかもしれないですけど、と小さな声で付け加えた。そんな私に、沙里さんは目を細めて、
「ありがとう」
 そう言って、頭を撫でてくれた。
 一度、休日に渋谷で沙里さんと遊んだ。彼女に誘われたのだ。中学生なんかと遊んで楽しいのかしら、と疑問に思ったが、当然私は沙里さんの誘いに乗って渋谷まで飛んでいった。
 お昼にはハンバーガーショップに入った。混雑の店内で二人分の席をどうにか見つけて、私たちは食事を始める。沙里さんの細くて白い指が、ハンバーガーの包み紙を開いたり、ポテトをつまんだりする様子を、私はじっと見ていた。彼女は食事の仕方まで美しい人だった。そんな風に沙里さんに見惚れていたら、すっかり耳の方はお留守になっていて、
「——ね、ちょっと。話聞いてる?」
「えっ、あ、」
 沙里さんの咎めるような声。私は慌てて謝罪の言葉を口にする。
「すみません、その、綺麗な顔だなって……」
 そこまで言ってしまって、はっと口を閉ざす。気持ち悪く思われないだろうか、と不安になったが、私の言葉に沙里さんは照れたような笑みを浮かべて、
「こらこら、自分だって可愛い顔してるくせに」
 そう言って私の頬をつまんだ。可愛い顔! 私は自然と頬が緩んでしまうのを、どうすることもできなかった。
 食事の後は、ゲームセンターに行ったり、本屋を覗いてみたり、ぶらぶらと散歩をした。うららかな小春日和だった。パステルブルーの空は高く、ところどころに雲がぷかぷかと浮かんでいた。賑わう街の空気には、枯葉の匂いが混じっている。途中でカフェに入って、私たちはお茶を片手におしゃべりを楽しんだ。沙里さんと一緒なら、何もかも全てが幸福だった。こんなに綺麗な、佳い人と街を歩いている——いつか夢に見た幸せが、今、現実のものになっているのだ。
 夕食にラーメンを食べて、私たちは解散した。私はもっともっと沙里さんと一緒にいたかったが、中学生はもう帰る時間だよ、と彼女は私の我儘を許してくれなかった。
 沙里さんは井の頭線の改札まで私を見送ってくれた。「またね」と言って、その人は手を振ってくれる。しかし、私は改札をくぐることができなかった。柱に軽く寄りかかって、私を見送るその表情に、寂しさの一片のようなものが見えたからだった。改札の手前で踵を返して、私は沙里さんのところへ戻った。そんな私に、彼女は怪訝そうに笑った。
「どうしたの、何か忘れ物?」
「えっと……そうじゃないんですけど……」ゆっくりと言葉を探す。沙里さんは、そんな私を何も言わないで待ってくれた。
「……私、言いました。何かあったら話してほしい、って。何の力にもなれないかもしれないですけど……でも、沙里さんが辛いのを我慢してるなら、それは私だって辛いです」
 そう言い終えた時、沙里さんの腕が伸びてきて、私の頭に乗せられた。彼女はやはり目を細めて、優しい顔で私を見ていた。頭を撫でていた手はやがて私の肩に下りてきて、そして私はぐいと抱き寄せられた。沙里さんの細い腕が背中に回ってきて、私は沙里さんの胸の鼓動を聞いた。
「何だか……立場が逆転しちゃったな」
 沙里さんの小さな声。
「初めは私が蘭ちゃんを助けてあげたいって思ってたのに、私の方がたくさん救われてるね」
「そ、そんなこと……。私だって、たくさん沙里さんに助けられてます」
「そうかな」
 沙里さんの腕の力が緩んで、私たちの身体は離れる。私は沙里さんの瞳が、ほんの少しだけ潤んでいるのを確かに見た。街灯の光、電光掲示板のデジタル文字、人々の喧騒と足音、電車の発車ベルの音、それらを全てその瞳は吸い込んで、そして後には沙里さんと私だけが残った。
「ね、少し散歩に付き合ってくれる?」
 それはとても小さな声だったが、私にははっきりと聞こえたのだった。
 土曜日の街は、夜になるにつれて賑わっていくように見えた。私たちはその賑わいをよそに、当て所なくぶらぶらと歩いた。その散歩の間、沙里さんは自身の境遇についてぽつりぽつりと話してくれた。
 前にも言ったかもしれないけど、うちの家、ほとんど家庭崩壊って感じでさ。何年か前にお兄ちゃんが死んじゃって——事故だったんだけど——お母さんがすごく不安定になっちゃたの。お母さん、お兄ちゃんのこと溺愛してたから。家のことも何もしなくなって、ずっと仏壇の前で泣いてるの。最初の頃は私もお父さんも悲しかったし、お母さんがそうなっちゃうのも無理はないって思ってたけど、一年経っても、二年経っても、変わらないの。ずっと仏壇の前でさ、なんで死んじゃったの、なんであんたなの、って。お父さんもすっかり愛想尽かしちゃって、外で女の人作ったみたいで、全然家に寄り付かなくなって。最近は、お母さん、私のこと見ると、「あんたが死ねば良かったのに」って言うの。「その方がみんな幸せだったでしょうに」って。私も頭に来て、そんなの分かんないじゃん、って言うんだけど、そしたら手を上げてきてさ——。
 私は何も言えなかった。沙里さんの境遇にショックを受けた。そしてその暗さを抱えながら、彼女はずっと笑顔で振舞っていたのだ、と思うと、それに少しも気づかなかった自分が情けなくて泣けてしまった。
「ちょっと、どうして蘭ちゃんが泣くの」
 沙里さんは笑って、ハンカチで私の涙を拭ってくれた。しゃくり上げながら、沙里さんに何か言わなくちゃいけない、と思い、言葉をまとめようとするが、その試みは少しも上手くいかなかった。沙里さんに背中を撫でられながら歩けば、いつの間にか元の改札のところまで戻ってきていた。
「はい、私の話はおしまい」
 これからも仲良くしてくれる、と沙里さんは聞いてきた。私は当然、大きく頷いてみせた。すると沙里さんは安堵の笑みを浮かべて、
「良かった」
 と呟いた。
 そして私たちは別れた。改札をくぐって振り返ると、私に手を振る沙里さんの姿が見えた。その口が「またね」と動いて、私は自分の胸に手を当てた。

     *

 翌日の日曜日、美々子のお母さんに招かれて、久しぶりに美々子の家を訪ねた。おばさんはやはり疲れた顔をしていたが、葬儀の日と比べるといくらか生気を取り戻しているようにも見えた。
 私は仏壇に線香を上げた。美々子の笑顔の写真が飾られていて、私はその彼女にごめんねと小さく言った。私には沙里さんがいて、もうあなたを失った悲しみなんて、ほとんど残っていないの、ごめんね。
「急な話で申し訳ないんだけどね、」おばさんがお茶を淹れてきてくれた。「もし蘭ちゃんが良ければなのだけど、美々子の使っていた物、少し貰ってほしいの」
「でも……いいんですか?」
 彼女は頷いた。「いつも仲良くしてくれてた蘭ちゃんに使ってもらえるなら、あの子も喜ぶと思うの。それに……私たちも少しずつ、気持ちを整理していかないといけないから」
 そして弱々しく笑った。
 美々子の部屋に入るのは久しぶりのことだった。塾通いが始まってから、めっきり足が遠のいていたのだ。それでも、彼女の部屋は私の記憶にある光景とほとんど変わっていなかった。物の配置も、カーテンの柄も、あの頃と同じだった。一つだけ違うのは、もうこの部屋に帰ってくる人はいない、ということだ。薄ぼけた午後の日差しが、部屋に舞う細かなほこりを照らしていた。
 済んだら教えてねと、案内してくれたおばさんが階下へと下りていった。私は一人部屋に取り残されて、どうしたものかしら、と考えてみる。美々子の私物で欲しいものなんて全く思い浮かばないし、私に彼女の遺品をもらう権利があるのか疑問だったのだ。それでもおばさんはそれを望んでいるようだし、私もたくさんお世話になってきたので、彼女の力になりたい、という気持ちもあった。私はぐるりと部屋を見渡して、それから何とはなしに美々子の机へと近づいた。
 机の上には、写真が一葉飾られていた。そこに写っているのは、私と美々子だった。去年のちょうど秋頃、美々子の家族と私の家族が合同でバーベキューをした時の写真だ。美々子は満開の笑顔で、ピースをしている。私もその隣で、小さくピースを向けている。そこには、ありありと私たちの友情が写し出されていた。もはや一片しか残っていないような、ありし日の友情。私は何となく、その写真立てを伏せた。
 一段目の引き出しを開いてみると、そこには一冊のノートが入っていた。手に取って、ぱらぱらとめくってみる。日付と数行の文字の羅列。すぐに日記だと分かって、私は慌ててノートを閉じようとした。さすがに、人の秘密に顔を突っ込みすぎている。しかし、目の端が捉えた一行の文章が、ノートを閉じようとする私の手を止めた。丸っこい、可愛らしい字で、そこにはこのように記されてあった。
『私、蘭のことが、好きなのかもしれない』
 それはあまりに思いがけない一文だった。金槌で頭を殴られたみたいだった——だってあの美々子が、私に、そんな感情を持っていたなんて、露ほどにも思わなかった。私は逸る拍動を抑えるように何度か深呼吸をして、それからその日付——今年の四月中旬の日——の文章を頭から読んでいった。まず初めに、私の塾通いを呪う言葉が書かれていた。蘭が塾に通い始めて、最近付き合いが悪い。勉強の何がそんなに大事なんだろう。云々。蘭と過ごせない放課後はとてもつまらない。他の友達と遊んでみても、なにかが違う。蘭じゃないとだめだなんて思う。こんな気持ちになるなんて、私、蘭のことが、好きなのかもしれない。
 それだけ読めば、軽い冗談のつもりで書かれているようにも思えた。しかしページを繰って彼女の内面を覗いていけば、それが必ずしも冗談ではないことが、少しずつ分かってきた。
『最近、気がつけば蘭のことばかり見ている』。
『授業中、蘭はときどき居眠りをしている。とてもかわいい』。
『蘭のことを考えると、胸がどきどきと痛くなる』。
 私はしばらく、ノートを広げたまま固まっていた。やがて、ゆっくりと階段を上がる足音が聞こえて、私は咄嗟に、そのノートを自分の鞄の中へしまい込んだ。扉がノックされて、おばさんが顔を覗かせる。
「何か、あったかしら」
「ええと、」
 私は机の上へ視線を走らせて、伏せておいた写真立てを手に取った。「あの、もしよかったらこれを頂きたいです」
 おばさんは優しく微笑んだ。
「その写真ね、美々子もすごく気に入っていたの。大事にしてあげてね」
 おばさんに見送られてその家を出た時には、すっかり夕方になっていた。私は真っ直ぐに家へ帰って、すぐに部屋にこもった。そして夕飯の時間になるまで、美々子の部屋から拝借してきた彼女の日記帳を読んだ。私の名前はしばしば文面に登場した。美々子は完全に、恋する乙女だった。私と話した内容や、私の振る舞いについて、彼女は細かく記録していた。それと同時に、そこには彼女の葛藤も記されていた。恋心を抱いているのに、友達として振舞わなくてはいけない苦悩。沙里さんのことも書かれていた。『蘭はサリさんとやらにご執心らしい。横取りなんて許せない。絶対に負けたくない』。
 九月末には、ヨル毒のことが書かれていた。『ヨル毒のことを蘭に話してあげた。あまり信じていないみたいだった。私はとても面白い話だと思うのに』。
 やがて日付は十月に入る。美々子の亡くなる、ほとんど一週間前だ。内容は概ね学校と私のことだったが、時折身体の不調を訴える記述が現れ始めた。
『ここ数日、胸がずきずきと痛い。特に、蘭のことを考えると痛みが強くなる恋患いかな。けれど少し笑えない痛さなので、近々病院に行こう』。
 そして亡くなる前日には、『やっぱり蘭のことを考えると胸が痛む。でも蘭のことを考えないではいられない。きっと今夜も、蘭への気持ちと胸の痛みで、よく寝られないんだろうな』とあった。
 胸の痛み。
 美々子ちゃんの死因、分かってないんですって。
 ヨル毒の話。
 「原因不明」って言うしかないの。
 沙里さんを思う時の、胸のどきどき。
 それらの事実が頭の中をぐるぐると回って、そして私は、もはや自分の身体もヨル毒に蝕まれていることを知った。

     *

 月曜日、塾の授業が終わってから、私はいつものように沙里さんを待った。しばらく待つと高校生の授業が終わって、沙里さんが姿を現した。彼女は私の顔を見て、心配そうに顔を曇らせた。
「蘭ちゃん、何かあった?」
「あの……今日は、お話したいことがあって」
 時間、大丈夫ですか、と尋ねると、沙里さんは頷いた。「むしろ、家に帰りたくないくらい」
 そして私は、全てを彼女に話した。ヨル毒のこと、美々子の日記のこと、彼女の死因が不明だという、まとりちゃんの話。そして、私がこのところ抱えている胸の痛みについて。沙里さんは真面目な顔で聞いてくれた。思えば、私の話は半分、沙里さんへの愛の告白だった。美々子の日記から察するに、ヨル毒は、誰かを恋患うことで発現する毒だ。その毒によって胸の痛みが現れ、その人を思えば思うほど、毒の効果は強くなり胸の痛みも増す。そして致死量に達してしまえば、死がもたらされる。つまり、沙里さんを思うと胸が痛くなる、と彼女に伝えることは、あなたを恋しく思っています、と伝えることとほとんど変わらないのだ。私は話の途中でそのことに気づき、身体が熱くなった。
 私の話を全て聞いた後で、沙里さんは小さく、「胸の痛みねえ」と呟いた。そして、
「その話が本当なら、きっと、私の方が先に死んじゃうんだろうね」
 そう言って笑った。私は彼女の言葉の意味を理解するのに、少し時間をかけなければならなかった。
「先に……ってことは、沙里さんも……?」
「うん」彼女は、自分の胸のあたりを軽く叩いた。「蘭ちゃんのこと考えると、痛むんだ」
「それって——」
「きっと、そうなんだろうね」
 夢みたいだった。
 沙里さんと目が合って、彼女ははにかむみたいに微笑んだ。それがあまりに綺麗な笑顔で、私は覚えず泣き出してしまった。よく泣くのね、と沙里さんが少し呆れたみたいに言って、私を抱きしめてくれた。しばらくそうして抱かれていると、涙も次第に落ち着いてきて、次に考えなくてはいけないことが頭の中に浮かんでくる。
 私の中にあったのは、ひたひたと迫ってくる死への恐怖だった。ヨル毒の進行を止める方法を考えてみたが、この毒は特定の人を思い続けることで強くなっていくものであり、記憶喪失にでもならない限り、私は沙里さんへの思いを募らせ続けるだろう。つまり逆に言えば、お互いがお互いの記憶を失ってしまえば毒の進行を抑えることができそうだけれど、
「私、沙里さんのことを忘れたくないです」
「私だって、同じ気持ちだよ」
 それに、そんなに都合よく記憶って無くせるのかな、と沙里さんは笑った。
 記憶喪失の案は無し。お互いが遠く離れ離れになれば、思い合うこともなくなるのかしら、と考えてみたが、私たち——少なくとも私に関しては、離れ離れになったとしても、沙里さんのことを思い続けるだろう、という自信があった。それだと毒の進行は止められないから、離れ離れになるという案も無しだ。そうなると、私たちに残された方法は一つだけだった。
 ビルを出て、駅までの道のりを歩いていく。私たちは自然と手を繋いでいた。沙里さんの手はすべすべで、私のものよりも少しだけ大きかった。ずきずきと胸が痛む。沙里さんを見ると、彼女も軽く胸のあたりに手を当てている。
「痛みます?」
「うん……結構」
「お揃いですね」
 私の言葉に、沙里さんは笑った。
 その日はハロウィンで、駅前は仮装の人々で賑わっていた。かぼちゃの被り物、魔女のコスプレ、少々血なまぐさい仮装や、漫画のキャラクターに扮した人までいる。私たちはそうした有象無象の間を縫って歩いて、駅の改札をくぐった。
「渋谷の方は、もっとすごいんだろうね」
「行ってみます?」
「いや、いいや」沙里さんは私の顔を覗き込んで言う。「この痛みから解放される方が、先かな」
 山手線のホームは、仕事帰りの人と仮装姿の人が入り乱れて、混沌とした様子だった。私たちはホームの一番端、電車が一番の速度で突っ込んでくる位置に立つ。私は、沙里さんの手を強く握った。まもなく電車が参ります、とアナウンスが流れ始める。
「沙里さん」
「なに?」
「後悔しないですか?」
「もちろん。もう、家に帰るつもりはなかったし」
 私は驚いて彼女を見上げる。沙里さんはにっこりと笑って、ちょっとね、と言った。
「蘭ちゃんこそ、いいの?」
「いいんです」胸の痛みがどんどん強くなっていく。「沙里さん、キスしてください」
 私たちは目を合わせて、そして唇を重ねた。近くから、きゃ、と黄色い声が聞こえてきた。もう心臓が破裂しそうだった。
 そして、電車のヘッドライトがホームに届く。せーの、で私たちはその光の中へ飛び込む。
 その後のことは、もう知らない。

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