百円

 試験の最終日がバレンタインとかぶっていたので、教室に向かう足で購買に寄り道してばら撒き用にいくらかのチョコレートを買い込み、地獄の一時間半のあとで、学科の友人らに振りまいた。人間はたいてい似たようなことを考えるらしく、私の手元にも、ひとくち大のチョコ菓子がいくつか舞い込み、今日まで試験でいっぱいいっぱいだったはずなのにチョコレートのことを頭の隅で考えてしまうあたり、私たちは相当この文化に冒されてるのねぇ、なんて徹夜明けの脳みそでしゃべって、それからすぐに帰って、シャワーを経由してからベッドの奥深くに潜り込んだ。甘やかな眠りはすぐにやってきた。
 次に目がさめたのは夕方の少し手前のころで、華子からメッセージが入っていた。
「試験おつかれさま。お茶にしましょう」
 彼女には明日提出のレポートがあったはずなので、それを尋ねると、思ったよりも捗って、余裕ができたというのだ。
「油断してると死ぬわよ」
「けれど、人生には、気を弛める瞬間も必要でしょう」
 それで私は顔を洗って、簡単な身支度のあとで部屋を出た。
 数時間の睡眠は私の景色を一新させた。夕陽をまちわびる空気のうっすらの水色。ばら撒き菓子とペンと解答用紙ははるか遠くに吹き飛んで、私は羽でも生えた気分で駅までの道を飛んだ。途中コンビニに寄って、そういえば華子に何にも用意していなかったことを思い出し、まあ今の私は気分もいいし、レポートとの格闘のお供に、何か買っていってやろうかしら、なんて気まぐれで百円のどら焼きをひとつ買った。
 会ってみれば華子はこのごろの睡眠不足が祟ってか、妙におしゃべりなのだった。お茶のやってくるなり、身を乗り出して、
「ねぇ、久保さんが石橋くんに何を贈ったか、聞いた? 私、てっきり、気合いを入れて、試験の合間をぬって手間暇かけた、手作りのチョコレートを渡すのだとばかり、思っていたんだけど、それがぜんぜん違ったの。ね、何だと思う? ——ゴディバ? そんなんじゃないの。とらやだったのよ。とらやのどら焼き。どら焼きよ、どら焼き。変だよねぇ。変わってる。でも不思議と、私は、素敵だなって思ったの。だって今日というこの日は、日本全国のいろいろなところで、大量のチョコレートがいったりきたりする訳じゃない? もちろんその中でも美味しさだったり、値段だったり、込められた思いの深さだったりは違うけれど、でも、チョコレートはチョコレートにすぎない。ね、本命の人から貰ったチョコレートに、どれだけの気持ちが含まれているか、正しく推量できる? 外側から見てるんじゃ、ぜんぜん分からないし、結局中を割ってみても、そこら辺でうろちょろしてるチョコレートと、大差ないのだわ。魂はどこにあるのか? ——ごめん、このごろ、レポートを書くためにこんなことばっかり考えて。とにかく、どら焼きは素敵よね。少なくとも物質的には差異をつくれているし、精神性はしばしば物質性に付随するものよ。チョコレートなんかより、どら焼きを贈った方が、ずっと、特別に思っている気持ちが相手に伝わると思うの」
 それで、私は買ってきたどら焼きを出せなくなってしまった。
「……おかしな話だわ」平静を装ってコーヒーをすする。「どら焼きが、チョコレートに勝るなんて」
「どら焼きもおいしいじゃない。それに、よく考えられている感じがする」
「でも、かえって、ぜんぜん考えていない場合の選択肢ってことも、あると思うの」
 それで私は思いきって、テーブルの上にどら焼きを出したのだった。
 華子は目を丸くした。それから、あぁとか、えーと、とか、意味をなさない言葉をもてあそんで、コーヒーカップに手をつけたりつけなかったりして、明らかに、うろたえていた。
「悪いけど」
 果てに彼女は言った。「それは受け取れないわ。急に、そんなことを言われても……ちょっと考えさせて」
「ねぇ待って、私はそのつもりで買ってきたんじゃないの。ぜんぜん、適当に考えた結果のひとつでしかないの」
 華子はかぶりを振る。私はもうむきになって、どら焼きの封を開けてしまって、そのやわらかい生地をひとくち大にちぎって、彼女の前にずいと差し出した。
「食べて」
「だから、時間が必要だって——」
「いいからっ」
 思いきり口に突っこんだ。
 華子は目を白黒させて、けれど吐き出してしまう訳にもいかないから、仕方なしに、おそるおそるといった感じであごを動かして、やがて、コーヒーでそれを飲みくだした。
「どう?」
 華子の次の言葉まで、永遠の時間が流れたように思った。
 彼女は言った。
「どら焼きね」
「ええ」
「そこら辺で、百円で売ってる」
「その通り」
 そのとき店員のひとりがテーブルに近づいてきて、お客様、外の食べ物の持ち込みはご遠慮していただいておりますので、と声をひそめて言うので、私たちは小さくなって、お詫びをかねてチョコレートケーキを注文した。それはなめらかに美味しく、カカオのコクが感じられて、まあ結局チョコレートも素敵ね、という結論に落ち着いた。
 テーブルが夕陽の朱をぼんやり映すころ、華子は席を立った。レポートの残りを片付けるという。
「そういえば、華子はなにも用意してくれてなかったのね」
「そうねぇ、なら、ケーキを奢る」
「お、やった」
「それから、返事はもう少し待っていてね」
「だからぁ」
 華子は笑っていた。
 駅前で彼女と別れて、茜色の帰り道、私はぶつくさと彼女を呪った。どら焼きに対する、彼女のあの解釈は、いったいぜんたい何だったのかしら? あんな調子じゃ、レポートもどうせ落第点だわ、なんて胸のうちで考えて、けれど一番には、自分自身に腹が立っていた。私は妙にどきどきしていた。脈が早いのには、きっとカフェインの作用だわ。寝不足だったし、過度にその効果が現れたのに、決まっている。
 部屋に戻ってから、ひとり、あまりのどら焼きを食べた。やっぱりどら焼きはどら焼きで、ああでも、うつろな恋というのは、こういう味がするものかしら、なんて、気まぐれに思ったりした。
 部屋はもう薄暗かった。

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