東京タワー

 喫茶店の戸を押す。涼やかなベルの音とともに、いらっしゃいませ、と明るい声が私を出迎えてくれる。その声にどこか聞き覚えがあって、この店を選んだ三十秒前の自分を呪った。ドアが開ききって、私を案内しようと近づいてきたウェイターの笑顔が凍る。やはり、それは市川だった。相変わらずの、その完璧な作り笑いに私は少し感動する。
「……新田」
 彼女の口調は弱々しく、普段のとげとげしさは影を潜めていた――ああ、でも最早、彼女が私に突っかかってくる理由はないのだった。私は彼女の服装に目をやる。清潔な白いブラウスに黒のパンツ、焦げ茶色のエプロンを腰からかけている。どこかの喫茶店でアルバイトをしている、という話は誰かから聞いていたが、まさか、私が気まぐれで立ち寄ったお店で働いているとは。
「久しぶりだね、市川」
 彼女と顔を合わせるのは半月ぶりだ。私たちはどちらも、半月前のことはできるだけ思い出したくない。
 ウェイターとしての役割を思い出した市川が、私を席まで案内してくれる。店内はさほど広くない。客は、私の他には静かにコーヒーを飲んでいるおじさんだけだった。私は案内された席に腰をかけて、それからメニューに目を通す。少し悩んでから、ケーキセットを注文することに決める。コーヒーとチーズケーキで、六八○円だ。市川がお冷を持ってきたタイミングで、注文を伝える。
 市川が注文をメモしている僅かな間、私は彼女の顔を注視していた。そうして、半月前の彼女の泣き顔を思い出さないではいられなかった。普段の彼女の様子から、大きな声を上げながら大仰に泣くのかしらと思っていたが、違った。双眸が徐々に水を含み、居酒屋のオレンジ色の光を集めてきらきらと反射させる。そうして目の端から、涙の粒が、ぽろぽろと溢れていく。彼女は静かに泣いた。それが印象的だった。私はどうだったかしら、と思い出そうとするが、すぐに諦めた。あの晩は散々に酔っ払ったので、ほとんどの記憶が曖昧なのだ。
「……なによ」
 市川の声で我に返る。彼女は多少不快そうに眉根を寄せていた。私はひとつ咳払いをして、何でもないわよと頭を振る。市川はそんな私を不審そうに一瞥してから、テーブルを離れた。私はその後ろ姿を見ながら、彼女の長い茶髪が今はお団子に纏められているのを見る。その髪型はさすがに、ちょっとあざとすぎないかしら。
 半月前の私たちは、とても惨めだった。二人揃って恋に敗れて、大量のお酒で悲しみをやり過ごそうとした。その前まで、私たちは恋敵として火花を散らしあっていたのに、あの日、あの瞬間に、私たちは同時に敗北者になった。そして私たちにあったのは、負け犬どうしの奇妙なシンパシーだった。私たちは泣いて、抱き合いながらお酒を飲んだ。愛がなんだ恋がなんだ、というようなことを言った覚えがある。私たち、強く生きていこうね、とも言った気がする(あるいは市川がそう言うのを聞いた気がする)。昨日の敵は今日の友、明日は明日の風が吹く。しかし二週間が経って、すっかり酔いも覚め、自分の中の悲しみとの向き合い方も分かってきた頃に顔を合わせてみれば、そこにあるのは気恥ずかしいくすぐったさだった。「これからは仲良くやっていこうね」だなんて、一体どの口が言ったのだろう。
 お待たせしました、と市川がケーキセットを運んできた。表情にこそ現れていないが、彼女も今、私と同じように気恥ずかしさを感じているのかしら。今度また飲みに行こうか、と軽い口調で誘ってみようかと思った。しかし私は何も言えなかった。市川が去って行って、私はコーヒーを一口すする。時間の流れがゆっくりなカフェの中、私は彼女のお団子を横目に、文庫本を開く。



 それから、新田とはしばしば行動を共にするようになった。彼女は気に入ったのか、私の働く喫茶店に時折やってきては、仕事上がりに何度か食事に行った。大学でも顔を合わせれば、なんとなく一緒に昼食も食べるし、履修科目のなかに同じ講義があれば、なんとなく二人並んでノートを広げた。少し前では考えられなかったことだった――私たちが田中先輩に残酷に振られてから、二ヶ月が経過しようとしていた。あの日、私たちの関係は恋敵から失恋仲間へと転落したのだった。
 だから思うに、今の関係は傷の舐め合いの延長なのだろう。失恋の傷は、癒えるまでに多くの時間を要する。加えて、私たちは今も健気に、あのテニスサークルに顔を出し続けているのである! 仲睦まじい様子の田中先輩とマリコちゃんや、あるいは時々私たちを襲う好奇の視線。私たちはそれらにチクチクと心を痛めながら、日々を生き抜いている。例えば田中先輩が、私たちの顔を見て少しは暗い顔をしてくれれば、少しは事情も違うだろう。しかし彼は、にこにこと人のいい笑顔を浮かべるだけだ。彼のなかで、私たちはもはや過去の出来事に過ぎないのだ。
 私たちにとっては残酷でも、彼にとっては筋を通したやり方だったのだろう。二ヶ月前のあの日、私は田中先輩に呼び出された。何かしら、と思って待ち合わせ場所まで行ってみれば、そこには新田もいた。彼女は私の姿を認めて、思い切り不快そうな顔を見せた。私も同じようにしたと思う。二人揃って田中先輩に呼び出されたとなれば、何となく、この後の出来事も察しがつくというものだ。田中先輩は少し遅れてきた。ごめん、と謝るその表情には、いつもの快活の色は見られなかった。まるで、これから自分がしなくてはいけないことを、重荷に思っているかのようだった。私たちはどこかの喫茶店に連れていかれ、そこで失恋した。新入生のマリコちゃんと付き合うことになったんだ、とか何とか。二人の気持ちは本当に嬉しいし、光栄に思うんだけど、とか何とか。あれは春だった。メニューのなかに、桜のタルトがあったのを覚えている。私は頭を下げる田中先輩を見ながら、こんなに惨めなことってあるかしら、と思うのだった。私は田中先輩を追いかけてテニスサークルに入り、一年間思い続けてきた。それは新田も同じだった。その片思いが、ぽっと出の新入生によって終わらされてしまうなんて。
 言うべきことを言ってしまうと、田中先輩の表情は晴れやかになった。じゃあ僕は、と言って、現実と向き合えていない私たちを置いて席を立った。その後ろ姿を見送って、先に口を開いたのは新田だった。「ねえ」彼女の声には、何の感情も含まれていなかったように思う。「この後、暇でしょう?」そうして私たちは散々に飲んだくれた。泣いて、酔っ払って、散財した。
 あれから二ヶ月だ。私は目の前で醤油ラーメンをすする新田を盗み見る(私たちは大学の食堂で、少し遅めの昼食を取っているところだった)私は彼女と一緒にいると、何だか気まずいような、ちぐはぐなような気持ちになる。しかしそれが、妙に心地良いのだった。私は、新田の言うところの「仮面」をたくさん持っていた。家族の前での自分、サークルでの自分、好きな人の前での自分、アルバイト先での自分、友人の前での自分、教師の前での自分――。私は実に多くの場面で、その場その場で最適なキャラクターを演じる。その器用さが取り柄である、という自負もある。
 しかし、新田の前では、どんな仮面をつければいいか分からなくなるのだ。恋敵用の仮面はもはや使えない。だったら友人用かしら――いやそれも違う。顔見知り用の仮面というのも、やはり適さない。正解が分からなくて、それが私には面白い。
「何見てるのよ」新田が私を見上げる。その短い黒髪がさらりと揺れる。
「別に」
「あっそう」
 新田は醤油ラーメンに戻っていく。私も、A定食に箸をつける。私の人生が一人芝居なら、新田のそれは抑揚のない朗読劇なのだろうな、とぼんやりと思う。彼女は何も演じず、どこまでも一人の新田奈央であろうとする。
 さて、私はこの後、彼女を買い物に誘おうかどうか考えてみるのだった。



 秋分の日も過ぎて、新田が私を華子と呼ぶようになった頃、私は一つの秘密を彼女に打ち明けるべきか悩んでいた。冷静になってみれば、悩む理由は全くないはずだった。しかし私は、人づてに聞いたその話を、一週間ほど自分の内で持て余したのだった。ついには彼女に伝えた。田中先輩、マリコちゃんと別れたらしいよ。
 私はアルバイト中で、テーブル席にて文庫本を広げる新田のところへお冷を継ぎ足しにいった時だった。なるべくさり気ないように伝えた。夜から雨が降るらしいよ、あるいは、来週から大学が始まるね、そんな風に。私の言葉に、新田は文庫本から顔を上げて私を見た。夏を経て、彼女は少しに日に焼けた。
「それ、誰から聞いたの?」
「カオリ」
「ふうん」
 新田は、興味なさげに本に目を落とした。
 ああ。私は嘆息した。そして、そんな自分に驚いた。
 新田がもはや、田中先輩への情熱を持っていないことなど、分かっていた。それは私も同じだった。あれだけ惨い振り方をしておいて、半年も経たないうちに別れてしまうなんて。もう私には、田中先輩への気持ちなど米粒ほども残っていないのだった。だからこそ、新田がまだ彼のことを想っていたら、と淡い期待があった。当然、それはばらばらに打ち砕かれた。
 一時間ほどして、新田は帰っていった。ありがとうございました、と店員の仮面を被って、私は彼女に頭を下げる。そして扉を押して店を出ていく彼女の背中を見ながら、これから何が私たちを結びつけるのかしら、と考えるのだった。恋敵、という関係は終わり、傷の舐め合いの延長期間も今や終わってしまった――私たちはどちらも、もう田中先輩のことを引きずっていない。そうした引き算の末に残るのは、サークルの同期、という関係性だけだった。
 ああ。
 アルバイトが終わる頃には、すっかりお腹が空いていた。着替えを終えて外に出れば、おもてはもうすっかり宵闇に包まれている。何か食べて帰ろうかしら、と横断歩道を渡ったところに新田がいた。
「や」
「……どうしたの、こんなところで」
「いやあ、私の誕生日が明日なんだけどさ、東京タワーでスイーツがただで食べられるらしいの。どうせこの後暇でしょう、付き合ってよ」
「……いいけど、その前に晩ご飯ね」
 新田は笑った。



 東京タワーに着いて、まず華子の要望通りに夕食をとった(私たちはハンバーガーを食べた)。それからソフトクリームのお店に行く手筈になっていたが、ハンバーガーとサイドメニューのオニオンリングで思いの外お腹が膨れてしまい、腹こなしがてら、先に展望台へ行くことに決めた。
「甘いものは別腹なんじゃないの」
 華子がからかうように言うので、勘弁してよ、と返した。彼女はアルバイトですっかりお腹を空かしていたようで、ホールケーキもぺろりと平らげてしまいそうな余裕があった。
 平日の頭とあってか、展望台に人の姿はあまりなかった。私と華子は背の高いガラス窓へ近づく。都会の光が瞬いてそこにあった。
「私、なんだかんだで初めて来た」
 華子の言葉に、私も、と頷く。足元に散らばる街の明かり。それは地平の彼方まで続いているように思われた。ふと窓ガラスに反射する二人の姿を見れば、彼らはほとんど肩のくっつきそうな距離で夜景を望んでいるのだった。こんなに近づくことはない、と隣に顔を向けると、華子の目は街の星々に奪われているところだった。思い切れば、キスできそうな距離だった。
「華子」
「ん?」
「人生はこれからも続いていくよね」
 華子が怪訝そうに私を見た。私は構わず続ける。
「その中できっと、悲しいことがたくさんあると思う」
「そうかもね」
「悲しいことの中には、一人で抱えきれるものもあれば、そうでないものもあると思う」
 だから、と私は言いかけて、口をつぐんだ。華子がにやにやと笑っていたのだ。
「なによ」
「新田って、口ベタなんだね」
「うるさい」
「お酒が入ったら、きっともっと素直になるのに。半年前みたいに」
 尚もからかい口調の彼女が面白くなくて、私は顔を背けた。窓は一面に広がっていて、そっぽを向いても夜景は見える。街の明かりは灯いたり消えたり、あるいは変わらずにそこにあったりする。その一つ一つに、人間の労働が、生活が、悲しみが隠れている。
「ほら、そろそろスイーツを食べに行きましょう」
 私はその夜景に背を向けて、エレベーターへと歩き出した。後ろから、華子の声が追いかけてくる。
「――ねえ、奈央」
 下の名前だ。
「……なに」
「私、絶対パフェにするから」
 横に並んで、華子はそう言った。その長い茶髪が揺れて、私はお好きにどうぞ、と返した。
 そうして私たちは、地上へと降りていく。

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