散文



承認

 どこにもいけない、って鬱ぎ込んでるあの子をどこか遠くに連れ出したいって思ったけれど、高校生の財力じゃ駅前の、よくある喫茶店のお茶をおごるのが精々だ。そういうわけで木下はいま私の隣にいる。駅前広場を臨む窓際カウンター席。彼女の瞳は、ちっとも警戒の色を隠さない。
 さて、私はといえば、
「あー……木下、最近どう?」
「最近って……別に、普通」
「そっか……」
「……」
 店内の喧騒が耳に痛い。
「こ、こないだの実力テスト、どうだった?」
「……別に、普通」
「そっか……学年一位はあいかわらず安達らしいよ、ほんと、嫌味なやつだよね」
「……」
 不思議だなぁ。ジャズってこんなにも心を急き立てるものだったなんて!
 さあ、私はいま一発逆転の話題を見つけなくてはいけない。親指と親指の爪をすりあわせながら、脳みそをフル稼働させる。でもこんなときに限ってちっとも上手くいかない——というか、私のこれまでの人生のなかで、脳みそをフル稼働させた結果として起死回生の活路を見出せたためしがあっただろうか? それは、それこそ安達みたいなやつの特権なのではないか? そもそも、なんで私はこんな子をお茶に誘ってしまったんだろう。というかついてくるこの子もこの子だ。おごってあげるよ、なんて適当な文句に釣られて。こんなんで、この先この子はやっていけるんだろうか。それこそ世の中には私なんて比にならないくらい悪いやつらが、池の中のコイみたいにいやらしく口をだらんと開いて、エサが飛んでくるのを待ち構えているのである。そんな奴らの毒牙に木下がかかってしまったら大変なことだ。ここは私が一度しっかり、教え込んであげないと。
「それで、」
 木下の声が私を弾く。
「そんなこと聞きたくて、私を呼び出したの」
「い、いや、そうじゃなくて、」
「話がないなら帰るから」
 木下は財布を取り出した。「320円だっけ」
「いやっお金はいいの、私がおごるんだから」
 木下はうさんくさそうに目を細める。
「でも、おごられる理由なんてない」
「え、飲み物目当てでついてきたんじゃないの」
「そんな訳ないでしょ。珍しい人からお誘いがかかったから、興味ひかれただけ。本当に何もないなら帰るから。それとも、」
 木下は視線を走らせる。
「どっかであなたの仲間が私を観察してるのかしら、お茶につられたバカな女、って、影で笑ってるのかしら」
「そんなことは絶対にしないよ」
「どうだか」
 彼女は席を降り立った。
「じゃ、お茶、ごちそうさま」
「……帰るの」
「ええ。私、これから習い事なの」
 それが、木下と交わした最後の言葉だった。その一週間後、彼女は亡くなった。自ら、その命を絶った。
 連絡が回ってきて、お通夜には出なかったが本葬儀には出た。木下のお父さんとお母さんをそのとき初めて見た。お父さんはマッチ棒みたいな人で、お母さんはきれいな人だった。ふたりとも憔悴を隠さんと振る舞っているのが痛々しかった。
 白い生花を棺桶にいれるとき、木下の首が青黒くなっているのを見た。クラスの何人かの女の子は泣いていた。私もつられて少し泣いてもみたけれど、本当に悲しかったのかどうかは分からない。霊柩車を見送って、私の日常は戻ってきた。その秋には野球部の前田くんと付き合い始めた。全ては平穏に流れつつあった。木下の空席も生活の景色に溶けていった。


6mg

 ある放課後、屋上に出てたばこを喫っていたら、それを時の生徒会長に発見されて、別段、そんなつもりなんてなかったのに、思い詰めて、自殺しようとしているのだと勘違いされて、涙ながらの説得をうけながら、変な人がいるもんだ、そう思った。私はかえって、その説得をうけてから、自死というものを陽に考えはじめた。たばこをふかす夜、ふつふつとその考えが自分のなかで、次第に大きく育っていくのを感じていた。落ち着かなくなって、兄貴のウイスキーを拝借してがばがば飲んでいると、気がついたら朝、酒とたばこの匂いのなかで目が覚めるのだった。
 生徒会長は、明美といった。明美の明は、公明正大の明。私が学校をさぼっていると、休み時間をぬって、よく電話をよこしてきた。
「またさぼってるの」
「まぁね」
 電波はため息を届ける。
 繁華街から一本入った、しょぼくれた喫茶店で、私はよくシナモンコーヒーを飲んだ。たばこの煙に目を細めて、雑誌をめくったり、窓の外を眺めたり、あるいはうたた寝をした。私のいる時間、お客はほとんどいなかった。店主も奥のほうに引っ込んで、のんきに新聞を開いていた。ここに閉じ込められているみたいだ、と私は思う。私も、お店のおじさんも。おもてはいい天気で、窓際、青色の光がコーヒーカップのふちできらりとはねた。
 たばこなんてやめろ、と兄貴はいう。朝方、適当な朝食のあとに一服やっていると、夜勤から兄貴が帰ってくる。兄貴は眠気と疲労を深く刻み込んだ顔で、私をじろりと見ると、そのように言う。そして一つの大きなあくび。
「学校は?」
「これから行くよ」
「さぼんなよ」
 大きな背中はシャワー室へ消えていく。
 また勝手にウイスキーを飲んだのを叱責される前に、私はとっとと家を出た。一時限目には十分間に合う時間で、けれど素直に学校に行く気にもなれないで、路地裏、猫をからかう朝日のひかり。明美はこういう時にも電話をよこした。
「まだ来てないみたいだけど?」
「いま向かってるところだよ」
「本当に?」
「たぶんね」
 思うに、彼女は私に突っかかりすぎだ。善意の押し売り。彼女の美点はそこにあった。
 生存の理由。
 私はこのごろその考えにとらわれていた。私はその考えを、誰かに打ち明けてしまいたい、と思っていた。けれど、適任は見つからないで、おもちゃをもてあます子供みたいな気分だった。季節は夏のはじまりで、生命があかるく躍動するその予感が、街に、人に、空にみちみちていた。私は仲間はずれにされたようだった。一人あそびは、快く気楽で、かろやかである。


雨待ち

「ちょっと、夕果さん」
 私は洗面台から顔を出して刺々しい言い方になる。「洗濯物、干しておいてくださいって言ったじゃないですか」
 仕事に出る前に回した洗濯機には、そこから一日中取り出されることなく、しめったうす暗闇に取り残されかわいそうにしわくちゃの衣類たちが顔をのぞかせていた。
「まったく」
 返事がないので、手を洗ってからリビングを覗くと夕果さんの姿はなかった。代わりに、テレビの脇には毛のあでやかに真っ黒の黒猫が一匹いるのだった。
「また猫の姿をして」
 私はまるで小学校の先生みたいな口調になる。「そんなことで、許されると思ってるようじゃ、甘いですからね」
 そうして猫を抱き上げようとすると、彼女は私の腕をするりと抜けてリビングから廊下へとことこ駆けてゆく。待ちなさい。そっちへ行っても、逃げ場所はないんだから。そんな言葉で追いかけて、猫の飛びこんだ浴室を開けると、彼女の姿はない。同時に、お手洗いから水の流れる音がして、夕果さんがそこから現れる。
「あらのりこ。何してるの」
「……洗濯物、お願いしたじゃないですか」
 あ、忘れてた、と彼女は笑った。明日やることにするわ。どうせ明日も、お天気なんでしょうから。そうしてテレビの音にぎやかなリビングへと戻っていく。
 私は廊下のすみにしばらく取り残される。ねこ、ねこ、気まぐれなやつ。浴室のすりガラス越しに、おおきく黄色い満月がゴッホの絵画みたいに見えた。
 またある夜、彼女はきまぐれに私のベッドに潜り込んできた。悠の顔と声でそんなことをするものだから、私は変にどきどきして、強く彼女を拒絶できない。夕果さんもそんな私の弱みを熟知しているみたいに、私の隣におさまった。私は背を向けるみたいに寝返りをうった。すると彼女も体を横にして、しなやかな腕がやわらかく私の腰に回された。
「ちょっ、と」
「だめ? ひとりのソファって、寒くてたまらないの。この季節は特に」
 耳元でささやくみたいに甘え声。私は顔が熱くなるのを感じた。
 その晩はどうにか眠りに就いて、翌朝は、ぺろぺろと、私のほほをなめる猫の愛撫で目をさました。朝の光のもとで鮮やかに黒い毛並み。ターコイズ色したアーモンド型の瞳。
「おはよう……ございます」
 それでお手洗いに立って戻ってくるとベッドにはにんげんのかたちを取り戻した夕果さんが昨晩と同じに潜り込んでいるのだった。すやすやの寝息。私は脱力感を覚える。
 夕果さんと暮らすというのはこういうことの繰り返しであった。私が猫を飼いはじめたと言いふらした由縁である。
 私にはたくさんの疑問があった。たとえば、夕果さんは初めて私の部屋にやってきた日、「私にも仕事があるし」と言っていたはずだが、毎日、私が仕事に出るときに家にいるし、帰ってきてもやっぱり家にいるのだ。昼間のあいだ、ちょっとだけ働いているのだろうか? それにしても外出の形跡がちっともないのだった。あるいは——もっと根源的な、いろいろを聞かなくちゃいけないと、眠りにつく直前のまどろみのなかではっと気がついたりするのだけれど、私の日々は夕果さんと黒猫に翻弄され、些事に関わっているうちにそのことはみんな廊下のすみに追いやられてしまうのだった。


透明

 トリアム・シノロン・アセトニド。
 呪文みたいなその言葉を口のなかで呟いたら、二回目で噛んだ。それでも歩きながら、くりかえしくりかえし、もてあそぶと、それはあるリズムをもって私の血液に浸透していくようだった。
「これが効くんですよぉ」
 線の細い、丸眼鏡の店員がそう言っていたのを思い出す——閉店まぎわの薬局には躁的なBGMがリピートで流されていた。蛍光灯の青白い光は彼の目元に深い影を落とした。その口はいやに大きく、にやにやと、あさましく動いた。
 要は軽めのステロイド剤だという。私はステロイドも、トリアムなにがしも理解しない。けれど、カタカナの未知の羅列は私を少しだけ勇気づけてくれる。
 薬局からの帰り道、細かな雨は夜闇に溶けていく。気晴らしにとコンビニに足を向けた。それが良くなかった。
「あ」
 横断歩道の向こう側。見慣れた緑と白の看板。その明かりの下に、私は昔の恋人の姿を見た。
 逃げ出してしまおうかと思った。しかし透明のビニル傘だったのが不幸だった。ばっちりとやつと目が合った。信号が青に変わる。私はもう逃げ出すこともできないで、ゆっくり、彼女に歩みを進めた。
「こんなところで何をしてるの」
「ちょっとね」
 足元に生理的害虫がいるのに気がついた。
「……魔法的だよね」
 彼女はそういう。
「ここにいるのが、別にねずみでも、XXでもいいはずなのに。でもこいつだった。今日が雨じゃなくても良かった。でも雨だった。ここにいるのが私とあなたじゃなくても良かった。でもそうだった。あなたは透明のビニル傘を差していた——それでなくてもよかったのに。私たちの現実の背後には無限の可能性が存在していて、そのたくさんの可能性のなかから、 けれど『ひとつ』が選ばれて目の前に顕現する。そのことに、私は何かを感じないではいられないの。その理由について、あるいはその背後の意思について、いろいろ考えたくなってしまうの」
 私はそれを黙って聞いていた。とにかく、この頃の私は自覚できる程度に口数が少ない。コンビニから出ていく人がちらと私たちを見た。信号は色を変える。自動車がしずかに滑り出す。
 ごめん、と我に返ったみたいに彼女は言った。
「口説き文句にしては悪趣味ね」
 彼女は何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。
「駅まで?」
 尋ねると頷く。もはや逃げ道はなかった。結局私は彼女を傘に入れてあげた。
 駅までの道中で会話はほとんどなかった。走り抜ける車の排気音がいやに耳に響いた。ビルの窓ガラスに私たちの姿が映って、私は少しだけ昔に思いを馳せた。彼女の横顔は、びっくりするくらい私に似ている。


あめのよるをわたるはえおんな

 翌日は休日で、朝から夕果さんは様子がおかしかった。ひとところに落ち着かないで、あっちをうろうろ、こっちをうろうろ。私が水谷準を読んでいると横から顔を挟んで、やや早口に、
「ね、ハセガワさんて知ってる?」
 と尋ねた。私は多少のひっかかりを覚えながらもかぶりをふった。夕果さんは、そう、とため息まじりにこぼすと、肩を落として私のベッドにもぐり込んだ。それでもまったく落ち着かないで、何度も寝がえりを打ったり枕の位置を直したりと忙しなかった。
 ハセガワ、ハセガワ。
 胸の中で唱えるうち——短編を読み終え、その時ひとつ思い出したことがあった。はえ女。彼女は確か、ハセガワという名前だった。あのコンビニ店員。まだ彼女がまともだった頃、青縞の制服に身を包んで近くのコンビニで働いていたのを見かけたことがあった——その胸に下げた名札。手書きの几帳面そうな字。
 それでふて寝の夕果さんを揺り起こし、私の思い出したことを彼女に話してあげた。夕果さんはいつになく私の話をまじめに聞くと、
「それでそのはえ女——ハセガワさんは、どこに住んでいるの」
 会いに行かなくちゃ。
 夕果さんは強い口調で言った。
 彼女は近所でも気味悪がられていたので、家の場所は私でも知っていた。彼女はある意味で有名だった。はえ女というのは、脳みそを病気に冒された女の姿だった。彼女の頭蓋骨の内側にははえが住んでいた。それでぶんぶんぶんぶん、彼女にしか聞こえない羽音を立てては彼女を眠らせなかった。かつて、明るく接客に取り組んでいたハセガワさんの健全は失われて、今となっては、ノイローゼに陥ってわけの分からないことを日夜わめきたてる病気の女がひとりいるだけだった。かわいそうにねぇ、春の持ってくる病はおそろしいわねぇ、夜に香る、ぼんやりとした梅の臭気なんかは、人を狂わせる作用がありますからねぇ。人々は噂した。ちょうど、悠の越してきた頃のことだった。
 ハセガワさんの家まで案内してくれるよう、夕果さんは私に頼んだ。私は興味半分で頷いて——だって、夕果さんがこんなに熱心にものを頼むことなどなかった——代わりにひとつの要求をした。
「写真を撮らせてください」
「写真? 別に、かまわないけれど」
 それで、早くしろと言わんばかりにポーズを取るので私は彼女を止めた。
「夕果さんじゃなくて——いや、夕果さんなんですけど。猫ですよ、猫。猫の夕果さんを撮らせてください」
「なんのはなし?」
 夕果さんは眉をひそめた。
「とぼけないでください」
「とぼけてないわよ——なんだかよく分からないけれど、相手が猫なら勝手に撮ったらいいんじゃない? 猫に肖像権なんてないでしょう」
 それで話はついた。
 おもては連日の晴れ間だった。十番通りから横にそれて、入り組んだ住宅街の、奥まったところにはえ女の住むアパートはあった。それまでの道中、夕果さんは少しだけ昔話を聞かせてくれた。
「ね、のりこ。あなた、手相占いって信じる? ほら、あの、手のひらの皺の長さだとか、位置とかで前世だったり将来だったりを"見る"やつ。私と悠はね、昔、手相を見てもらったことがあるの。そうして何て言われたと思う? 『ふたりには魔女の血が流れてる』。魔女! ねぇ、魔女なんて、おかしな話。手相を見ただけで、断言してしまうんだから。私は笑ったわ。悠も笑ってた。それでふたりの間で、しばらく魔女っこごっこが流行ったのだわ。傘なんかを足で挟んで、キッチンのおたまを魔法の杖の代わりにしてね。私のが悠よりずっと上手に魔女をやれたわ。あの子はあんまりうまくなかった——ね、生霊を信じる?」
 夕果さんの饒舌ははえ女の家に近づくたびに尻すぼみになった。そうして最後にはだんまりになってしまった。私と夕果さんは陽の当たらない路地を歩いた。湿気が肌にまとわりついた。203号室。それがはえ女の部屋だった。カンカンアパートの階段を一段のぼるたび、あたりの重苦しい沈黙が私の腹の底にたまっていくようだった。夕果さんの足取りは毅然としていた。彼女は全身にある決意が満ち満ちているようだった。
 夕果さんがベルを鳴らした。


ヘアカット100

 改札越しに今野の姿が見えたとき、私は思わずどきりとした。遠くから見る彼女はひとり、駅前の、清潔で明るい白色灯に照らされて、それが奇妙にちっぽけで頼りない感じがしたから。彼女のシルエットがそのまま雑踏のなかに溶けて二度と戻らないような気がしたから。もちろんそれは錯覚に過ぎなかったが、いまの私には不思議と錯覚だけで充分だった。妙に逸る気持ちで改札を抜けた。
 今野は足音で、携帯電話から視線を上げた。私は息をついて平静を装った。「早いね」
「……電話をかけてたの」
「出た?」
 形だけそう尋ねたけれど、彼女の顔色からその答えは分かりきっていた。それに、電話なんて今更だ。これまで何度も試してきた。今野だけでなく、あの子の周りにいた何人もが協力した。メールだってした。メッセージも送った。私たち学生が取れるような連絡方法はあらかた試した。けれどそれらの甲斐なくあの子は、後藤みやこは、ひと月の間完璧に音信不通を保っている。
 今野が携帯をしまった。私は義務感から、
「やー、寒いね。聞いた? 深夜、雪が降るんだって。ニュースでやってた。積もるかも、って」
 そんなことを口走った。雲ひとつない、放射冷却が抜群に効くだろう夜だった。
「……そう」
「怖い?」
 今野は小さくかぶりを振った。それからえんじ色のマフラーを丁寧に巻き直す。
「行こう」
 そうしてその夜、私たちは後藤の部屋に二度目の訪問をする。結果から言えば、これは私の心にある感情をもたらし、それには大きな後悔が伴った。事の顛末を思い返すとき、私はなぜか、いつもスイミーの話を思い出してしまう。あるいは、やぶへびという言葉を。生活とは小魚ばかりの海のなかを、視界の悪いやぶのなかを進んでいくものだ。油断しているととんでもないものが飛び出してくる。それは偽物の大きな魚であったり、蛇であったり、時に、もっと思いがけないものであったりする。


ある速度

「そんなの嘘よ」
 強い語気で否定したけれど、Aさんはくすくす笑うばかりだった。「こんな変な人いるんだ、って思って、結構感動的だったのよ」
 Aさんの怖ろしいのは、その作り話の絶妙なチョイスである。唐揚げをバカ食いしたような記憶は私にはもちろん無いので、作り話は作り話なのだけど、その一方で確かに、私は鶏肉の揚げ物に目がないし、四丁目には彼女の言った通りの店名の居酒屋があって、それはいかにも大学生が好みそうな類の店なのだった。ひょっとしたら私の方が記憶ちがいをしているのかしら、とつい考えてしまい、背筋が寒くなる。
 最近私はほとんど根負けするように、Aさんの嘘に付き合うようになった。偽物の過去と友愛に座って暮らすのは、時にひどく骨折りだけど、諦めて流れに身をゆだねるのは気楽でもある。
 それでも滝壺に落ちる前に、私は隙を見て、彼女をどこかの病院にぶち込まなくちゃいけない。
 ある冬の日、私はAさんに誘われて喫茶店にいた。
 私たちは素敵なケーキとコーヒーを挟んで、けれどお誘いの本人はさっきから不機嫌を隠そうとしなかった。仏頂面でそっぽを向いたそのさまは、悲しいかな、彼女のたぬき顏では迫力が充分でなく、私にはかえって滑稽で、愛嬌のあるようで可笑しかった。
 窓の向こう、見知った顔とそうでない顔が入りまじって道を歩いていた。
「ケイコはああいうの、何とも思わないの」
「……ちょっと知り合いと喋っただけじゃない」
 Aさんは私のことをケイコと呼ぶ。本当は、私はそんな名前ではないのに、いくら言っても聞かないのでもう好きに呼ばせていた。
 私はさきほど例の症状が出た。別の席に友人の姿を見つけて、お手洗いのついでに彼に挨拶をした。その人は私に話を合わせてくれたけど、よくよく思えばあんな顔に見覚えはなかった。ああ、またやってしまった、と反省して席に戻れば、ふくれつらのAさんである。
「街で友人に会って、少しの挨拶を交わすのはそんなにいけないこと?」
 本当は友人でなかったから、それは軟派のようなものだったのだけれど、その事情は都合が悪いので伏せておくのだ。私は、私よりずっと重篤な彼女を監督しなくてはいけないから、変なところで弱みは見せない。
 Aさんはだんまりでコーヒーをすすった。
「そんなに私を独占したいの」
 彼女はそっと目を伏せる。
「……いけないこと?」
「きもちわるい」
 私はケーキを口に放る。ミルクコーヒーで脂をさっぱり。ちょっと意地悪だったかもしれない、と思った。いや、そもそもが知らない人で危ない人なのだから、気にすることはない。店内の小さな音楽はいまや二人の間で大変に存在感をもって立ち上がっていた。私はふと、近頃一滴もお酒を飲んでいないことに気がつく。
「お酒はだめよ」
 Aさんはきっぱりと断じた。窓の向こうを見たままだったので、意地悪の延長かしらと思ったが、そうではないらしい。
「私たち、もうずっと前にやめたじゃない。お酒はもうよそう、って」
「どうして」
「毒だから」
 もちろん彼女の話はぜんぶ創作なのだけど、私はあえて付き合って、そう、と気丈に頷いた。




 前田くんとはじめてのキスをしたとき、私を襲ったのは、木下の唇はどんな感触だろう、ということだった。その手の考えは常に私に付きまとうようだった。彼と手をつないでも、私には木下の指の細さが気になり、彼と街へ出かけても、木下は休日をどんな風に過ごしていたんだろうと気になった。前田くんとはじめてのXXXXをしたとき——この人は木下じゃないんだ、ってようやく気がついた。木下はもういない。ずっと前に、死んでしまった。
「好きだったのかもしれない」
 いまさら気がついた。それはもうあんまりに遅すぎた。
「考えすぎちゃだめよ」
 普段適当に生きてる安達が、この時ばかりは真面目な顔して私にそう言った。木下に会いたいって私はそう思った。放課後は二日に一回、木下の家に立ち寄ってお線香をあげた。遺影のなかの木下は、私とお茶したときと同じような、仏頂面で、私を睨むようだった。それでもよかった。せめて夢の中で動いている彼女に会えたら。そう考えるけれど、夢は私の支配の及ぶところではなく、気まぐれに、ぜんぜん関係のない映像を見せた。日に日に動いていた彼女の記憶は薄れていくみたいだった。彼女の声、彼女の髪の揺れるさま、教室で本を読んでいた後ろ姿、茜さす教室でひとり、「死にたいなぁ」ってぽつり呟いていた彼女(私はまったく偶然にそのシーンを目撃してしまった)。そうしたことどもが時間の経過とともにじりじりと私から離れていくのが分かった。肉を削がれるいきものみたいに。私はどこにもいけないって思った。私には、もう全部が、分からなかった。そうしてぐちゃぐちゃになっていたある夜、夢に木下が現れた。ばかねぇ、彼女は声にならない声で私に言った。
「でもうれしいよ」
 ありがとう。
 私は飛び起きた。そして、どうして目覚めてしまったんだろう、激しく後悔した。気がつくと泣いていた。それはとどまることを知らなかった。秋の深い夜、苦しい私は承認された。

inserted by FC2 system