愛と情

 視界の端の窓の向こう。遠い光がまたたいて、見れば、飛行機の墜落していくところだった。
 それは四限の途中のことで、私は空腹でぼうっとしていて、きっと脳みそがいたずらに見せた幻覚だろう、と思った。けれど目をこすっても、景色は変わらない。小さな機体は簡単に窓辺を落ちて、尾翼が秋空をひっかくと血の色の爪痕が残った。血の色は、黒い煙と炎の混ざった色だった。
 目を離せなかった。授業が終わって、ベルの音が鳴ってもそれは私には関係のないことで、ゆうかちゃん、と控えめに肩をつつかれて初めて、呼吸のやり方を思い出したみたいに私は私のもとに帰ってきた。騒がしい女子校の昼休みが、始まっていた。
 振り返ると、さおりが不思議そうな顔で立っていた。私はうすく笑ってみせる。
「ごめん。さっきの英語、すごく眠くて」
「もう。ゆうかちゃん、そんなのばっかり」
「だから、英語の課題、教えてくれない?」
「それは自分でがんばりましょう」
「えー」
 窓の向こうに飛行機はもう見えなかった。墜落したのだろうか。人がたくさん、死んだだろうか。あれだけ高いところから、あんな速さで落ちたら、きっと即死だろうと思った。身体はばらばらに分断され、ごちゃまぜになって、どの部位がどの個人のものだか、もはや判別できない。
 かばんからお昼ごはんを取り出していると、雑音に混じって、あやね、と呼ぶ声がする。教室の戸口に立って、派手めな生徒がふたり、覗きこんでいる。呼ばれた立花あやねは、小鳥みたいな身軽さで席を立つと、ふたりの元へ歩み寄った。ぴーちくぱーちく、軽口を交わして、教室を出ていく。背を向けた彼女の、細いシルエット。私は菓子パンと水筒とを手にした。
「行こっか。おまたせ」
 
 天気の良い日、私たちは中庭で食事をとる。淡い水色の空は高く、うろこ状に秋の雲が走っていた。
「冬になったら、教室で食べようね」
 さおりはお弁当箱を開けながら言った。私は水筒の紅茶をひとくち飲む。今日のお昼は、パスコのメロンパン。
「いいじゃない、ちょっとくらい寒くても。暖かいところばかりにいたら、頭がばかになっちゃうし」
「でも……」さおりは唇をとがらせた。「寒いのを我慢してたら、足が太くなっちゃうよ」
 さおりは外での昼食をあまり好んでいないようで、しばしばこうして文句を言った(それでも結局は、私の後ろを離れないのだけど)。
「今日もおいしそう」
 お弁当箱を覗くと、さおりは、そうかなぁ、と頬をゆるめる。お弁当は、彼女の手作りだ。昨日の、残り物なんだけどね。冷凍食品も使ってるし。口では謙遜するけれど、それを密かに誇りに思っていることは確かだった。
 卵焼きをひとつねだったら、快く分けてくれた。甘めの味付けは、完璧に私の好みである。
「これは、将来いいお嫁さんになりますな」
 からかうと、彼女はぶーたれた。「それで、お返しは何をくれるの?」
 私はちょっと考えて、購買で買ったプリンを、半分こすることにした。

 事を終えたあと、立花は口数が少ない。荒い呼吸が落ち着くと、もくもく、着衣を整えはじめる。脱がせた下着。はだけたシャツ。タイツを履いて、ももの内側につけた痕は見えなくなる。
 私はなんだかつまらない。
「ね、キスして」
「やだ」
「いいの? そんなこと言って」
 カーディガンのポケットをぽんと叩いてみせると——ここにはスマホを入れている–—立花は眉をひそめた。そして観念したみたいに私の唇にかみついた。
「じゃ、行くから」
 そうして彼女は理科準備室から去っていく。放課後、窓から差し込む夕暮れの赤に落ちて私はひとり五分経つのを待つ。別々に部屋を出ていくのは、人に言えない関係と知っているからだった。
 汗をかいたあとは無性に炭酸が飲みたい。学校を出ると、すぐのコンビニでサイダーを買った。

 関係は、夏の終わりの頃からだった。私は偶然に、放課後、準備室に入っていく立花と青柳先生を見てしまったのだ。呼吸をとめて、準備室に近づいて、そのドアに耳をそっと近づけると、聞いてはいけない声を聞いてしまった気がした。私はそれを録音した。立花に聞かせて、そして関係を迫った。
 帰りの電車は混雑のはじまりで、どうにかつり革に掴まって自分の分の空気を確保する。スマホを取り出して、検索窓に単語を打ち込んでいく。
『飛行機 事故』
『飛行機 事故 最新』
『長町 事故 最新』
 まるで甲斐はなかった。ニュースサイトは政治家の不祥事と、芸能人の熱愛と、その他の雑多なトピックばかりで、私のほしい情報はひとつも転がっていない。
 車窓は風景を淡々と運ぶ。居眠りするおじさん。誰かの笑い声。私は確かに墜落を目撃したはずなのに、世の中はまるで通常運転に見える。

「昨日ね、」
 さおりの口調は淡々としていた。「塾で告白されたの」
「えっ」
 普段通りのお昼休み、私はさぞ間抜けな顔をしていただろう。さおりは唇をとがらせた。
「もー、そんなにびっくりしないでよ」
「だって、いきなりじゃん」
「うん。私も、びっくりした」
 だから断っちゃった、と彼女は言った。話を聞くと、相手とは親しいわけではなかったらしい。授業の合間に、少し話をしたことがあったくらいだとか。
「でも、そういう人が、意外と運命の相手だったりして」
 軽い返事のつもりだったが、さおりは目をぱちぱちさせた。「ゆうかちゃん、運命の人なんて信じてるんだ」
「え、いやあ、」
「でも、もしそうだったら、不便だね。相手が運命の人でも、そうと分からないんだもん」
「や、運命っていうくらいだもの。きっと、びびびって来る何かがあるんじゃないかな」
 さおりはふふと笑った。「そしたら、やっぱり運命の人じゃなかったな」
 私は初めて立花を見たときのことを思い出していた。あの瞬間、世界が私のなかに飛び込んできた。
「その人、かっこよかった?」
「うーん、よくわかんない」
「なにそれ」
 笑うと、さおりも私に合わせるみたいに口元をゆるめた。

 化学の授業のあとで、テキスト片手に青柳先生を追いかけた。開け放たれた廊下の窓にキンモクセイが香る。
 青柳先生はううんと唸った。
「教える身で言うのはあれだけど、無機はほとんど暗記科目なんだよねぇ」
「身も蓋もないですね」
 先生は苦笑する。「手厳しいな」
 けれど質問は、ほとんど方便みたいなものだった。
 ひょろりと細長い先生は、少したばこの匂いがする。銀縁のめがね。こそげ落としたみたいな頬、くたくたのカーディガン。
 この人の情事はどんな風だろう。私は想像してみる。立花は私よりかかとひとつ分小さいから、ちょうどこの人の顎の下に、頭のてっぺんが収まるだろう。針金みたいな腕が立花の輪郭を奪う。つむじに口づけを落として、やわらかいところを貪る。
「他には、大丈夫そうかな」
「あ、はい」
 青柳先生はめがねを掛け直すと、去っていった。立花もたばこを喫ったりするのだろうか。煙の残り香は内側でざらりとする。
 先生と立花の逢瀬は、月に二回の頻度で行われているようだった。放課後、生徒が校内に残っていないか見回りする役割は、若手の先生がローテーションで担当する。青柳先生が当番の日に、示し合わせて、事に及ぶのだ。

 季節の変わり目はよく頭痛をする。気圧が不安定になるせいか、何なのか、いずれにせよひどく患うと、授業を受けているのも苦しく、私はしばしば保健室へ逃げ込む。保健室の佐々木先生はもはや顔なじみだった。うす青いシーツに潜って、一時間と半分を眠る。
 起きるとすっかり放課後で、ベッドの脇、さおりがうつらうつら船をこいでいた。
「さおり」
 一度では起きなかった。二回目で、その身体がびくりと跳ねて、茶色の瞳が半分のぞく。「ごめん……うとうとしちゃった」
「ううん、大丈夫だけど、」
「ゆうかちゃん。具合はどう?」
「ありがと、もう平気、だけど、」 
 ベッドを囲うカーテンはオレンジ色に燃えて、夕暮れを教えている。「さおり、今日は塾じゃなかった?」
 はっとして、さおりはスマホを確認する。その顔がさあっと青ざめて、彼女はかばんを引っ掴むと、ごめん、また明日ね、と言い終わらないうちから駆け出した。ぱたぱたと足音が遠ざかって、カーテンはまだ揺れていた。小さく笑っていると、佐々木先生がびっくりしたように顔をのぞかせた。
「阿川さん、すごい勢いで出ていったけど」
「塾の時間がやばいらしいです」
「あら」
 ベッドを抜け出す。カーテンを開くと、窓からは夕日が赤々と差して、すべての実体が暗い影をたずさえていた。夢の中で、炎を見ていたと思う。私の前に立ちはだかる、ごうごうと燃え盛るそれは、もはや手のつけようがなかった。
 佐々木先生のお小言を聞いてから——睡眠時間は足りてるの? 頭痛薬も、携帯しておきなさい。本当に痛くなる前に、飲むのよ——、保健室をあとにする。部活も終わりの時間で、昇降口はジャージ姿の生徒でにぎわっていた。反対方向に、足を向けた。廊下の窓、東の方角に、細い月が昇りはじめている。

 繰り返し、炎の夢を見た。初めは吹き消せばそれでおしまいの、ささいな種火で、けれど夢に現れるたびに酸素を栄養にしてみるみる肥大化していった。いまや空気は焦げ臭く、皮膚はじりじり変色しはじめていた。自然の定めたやり方はあまりに暴力的だった。すべてが燃え切って、黒炭に変じた自分を想像した。痛くて苦しくて、けれどそれらは必然の結果にすぎない。熟れすぎた果実がやわらかく腐臭を放ち、黒い虫を集めるみたいに。
 三階のすみっこ、理科準備室の前まで来るけれどひとけはない。銀色の月あかり。身体の表面が、しっとり、温度を失う。私はここで目撃したものをひとり思い返す。あの日も私はやはり頭痛で寝込んで、起きたらすっかり遅い時間で、迷い込んだ暗闇のなか、甘えた声を聞いた。「ね、先生、早く早く」。スラックスのポケットを、確かめるように叩いた青柳先生。あそこにはきっと、男のひとにかぶせるものが入っていた。立花のスカートはひらりと揺れて、身体の言語で何かを誘った。

 秋は少しずつ深まって、その日は夜に雨が降る予報だった。暗色の雲は六限の終わった頃、もこもこ姿を現して、帰りに降られなきゃいいけど、そんなことを思いながら準備室へやってきた。
 電気のつけていない室内はうす暗い。段ボールが乱雑に積まれた窓際、所せましと並んだ教材や実験道具。人体模型は準備室の隅に追いやられて、黙ってほこりをかぶっている。不遇の扱いだけれど、エロい声がたくさん聞けるから、まんざらでもない。この部屋で事に及んだ人たちは、これまでにどれくらいいたのだろう。私はそのうちの一人。立花と青柳先生も、そのうちの二人。
 単語帳をめくりはじめた頃、彼女がやってきた。いつものように不機嫌を隠さず、少し乱暴に、扉を閉める。それでも内鍵をかけるのは忘れない。錠の落ちる、合図の音。
 回数を重ねると、立花の好きなところが分かってくる。耳を優しく吸われるのが良い。首筋は、歯を立てるのが良い。うすい唇を割ってその中へ入ると、熱い舌はぎこちなく液体の交換に応じる。指で、ゆっくりこする。吐息がもれて腰が砕ける。
 はじめ、二人の関係はお金を介在したものだと思っていた。立花と青柳先生の組み合わせが、あまりにも不釣り合いに見えるから。けれど立花は私にずっと従順で、それは裏返しにある事実を示していた。
 青柳先生とのあいだに愛がないなら、容赦なく切り捨てればいい。責任の多くを青柳先生が切り分けて、持っていってくれるだろう。立花はきっと被害者になれる。そうすれば、私の音声ファイルももはや意味をなさない。こんな無理やりの関係なんて、すぐに解消できる。でもそうしない。立花はそれを選ばない。
 いつの間にか、細かい雨が降り出していた。
 立花はゆっくり呼吸を取り戻すと、いつものように、行為の痕跡を消していく。私もさっさと済ませて、立花の白い肌が着衣に隠されていくのを眺めた。ひとつ、ふたつ、みっつ。じとりと、不機嫌な視線が返ってくる。
「変態」
「それ、立花が言えるの?」
 彼女は言葉につまった。
 いつもと同じように、立花が先に部屋を出る。単語帳をぱらぱらと流して——中間考査が近づいているのだ——、五分、私も準備室をあとにして昇降口へ階段を下りる。しめやかな雨の匂い。
 下駄箱を出てすぐのところ、立花が腕を抱いて立っていた。今は、面識の薄いクラスメートを装わなくてはいけない。俯き加減で彼女の脇を通り過ぎる。
「ちょっと」
「……何?」
 振り返ると、立花はばつが悪そうに視線を泳がせた。「あんた、傘もってる?」
「持ってる、けど」
「ほら、あの……置き傘してたつもりで、実はこのあいだの雨で持ち帰ったのを忘れてた、とか。かばんに入れておいたつもりの折りたたみも、全然見つからなかったりして、その」
 言葉は雑然と並んで、結局、彼女は小さく目を伏せた。「……傘、入れてくれない?」
 
「ねぇ、肩が濡れるんだけど。もう少しそっち寄って」
「あのね……私もぎりぎりなの」
 折りたたみ傘に二人を収めるのは難しい。秋雨は雫が小さく、私たちは肩の半分をしっとりと濡らした。もう一方は、傘の中でぴったり触れ合う。私はどきどきと落ち着かなくて、けれどそれをおもてに出さないよう、まっすぐ前を向いて歩いた。ちょっと、と立花が私の手首をぎゅうと掴む。心臓が拍動をひとつ飛ばした。
「奥山、歩くの早い」
「ごめん……」
 私たちは直接的な交渉をずっと前に済ませているはずだった。けれど、性欲を経由しない言葉と接触は、妙に私をむずがゆくさせて、耳が熱い。感づかれてないかと、立花に視線をやると、彼女は夜に沈んでいく雨雲をじっと見つめていた。その向こう側を見通したい子供みたいに、熱心に。
 傘の行き交う駅前、私たちは風景のなかに溶ける。この時間はもうすぐ終わる。そわそわして落ち着かないのも、いますぐ駆け出したいくらいに胸の奥が騒がしいのも、終わり。けれど安堵にも似た感情は長くは続かなかった。立花の言葉が、唐突だった。
「前に、飛行機が落ちていくのを見たんだよね」
 私は彼女を見た。
「でも、誰に話しても、そんなのありえないって言われるの。本当に飛行機が落ちたなら、大ニュースになってるでしょって。見間違いでしょ、って。それは、その通りだと思うけど……でも確かに、私は見たんだけどな」
 駅の構内に入って、傘をたたむ。ありがと。やっぱりちょっと不機嫌そうに立花は言って、そして私たちは別れた。地下鉄に続く階段を軽やかに下りる彼女の姿は、すぐに見えなくなる。
 雨傘は泣いているみたいに雫をこぼす。私はいつまでもそこから動けないような気がした。

 中間考査のある一週間、弱く長く雨は続いた。灰色の屋根の下で色彩は鈍く、けれど雨粒が光を含んできらりとするのを、きれいだと思った。
 さおりは例によって、上々の出来のようだった。ゆうかちゃんは、と聞かれて、渋い顔を作ってみせると、くすりと笑った。「せっかく勉強、教えてあげたのに」
「でも、赤点は回避できたと思うよ、さすがに」
 さおりは今度は笑わないで、あのね、ゆうかちゃん、本当にがんばった方がいいと思うよ、と諭されてしまった。
 とはいえ過ぎたことはどうにもならないので、私たちは街へ繰り出す。夕刻のアーケードの雑踏。解放感で肩は軽く、どこにでも行きたい。街角を、冷やかしていく。
「ゆうかちゃん、いま、付き合ってる人いるの?」
 結局、よく行くドーナツ屋に落ち着いて、カフェオレで手を温めていたら、質問は突然に降ってきた。私は目をぱちぱちとさせて、いないよと答えた。それはどこまでも本当のことだった。
 さおりはちょっと困ったみたいに笑った。
「夏休みが明けてすぐくらいにね、ゆうかちゃんに恋人ができたのかな、って思ったの」
「どうして?」
「何だか、そわそわしていて、あとちょっと嬉しそうだったから」
 飲みものを飲む。カフェオレは少し苦い。
 さおりはドーナツを半分に割りながら、言葉を続けた。
「でもね、その雰囲気も、少ししたら元通りになったの。それに放課後も、変わらず私と一緒に過ごしてくれるから、何だか分からなくなっちゃって」
「大丈夫。いい話は少しも無いの、残念なことに」
 それより、と私は主導権を奪う。「この間の塾の子とは、あれから何もないの?」
「えー。何もないよ、ちょっと気まずいだけ」
 全然、興味ないもん。さおりの目配せの、その奥にある気持ちに、私は気がつかないふりをする。

 土曜日の昼過ぎには頭痛の予感が脳みその裏側にうすく張り付いた。自室のベッドに横になって、平和に時間が流れることを祈る。まぶたの裏側には、雨の日の帰り道が何度も蘇った。
 おもては小春日和で、半分開け放した窓から枯れた空気の匂いがする。秋の終わりがしだいに近づいていた。
 私、死にたいかもしれない。
 突然降りてきた考えは、確かに何かを捉えているように思えた。

 その日は珍しく、立花が先に準備室に来て、窓から暮れていく空を眺めていた。
「テスト、どうだった?」
 背中に言葉を投げると、立花はううんと唸る。
「化学だけは、できたかな」
 振り向かないままで、そう答えた。
 立花に近づいた私は、後ろから腰に腕を回した。彼女が身を固くしたのが分かった。その首に鼻をうずめると、甘やかな匂い。
「……あの、奥山。今日はちょっと、その」
 立花は珍しく言葉をにごす。小さい声で尋ねると、彼女はこくりと頷く。
「じゃあ、今日は私にしてもらおうかな」
 首筋にやわらかく噛み付くと、吐息をもらした。
 あの雨の日に続く言葉をずっと考えていた。それを伝えるのは簡単で、けれどその先に、何があるだろう? 立花は相変わらず、私に従順だった。ここは行き止まりだ、と思う。学校のはしっこの準備室、この部屋は望ましい未来に通じていない。やってきた道を、後戻りするしかない。けれど、もしそれすら叶わないとしたら、私はどうしたら良いだろう。
「……やめて」
 顔をうずめていた立花を、引き離した。立花はほっとしたような、どこか釈然としないような顔で私を見上げる。
 誰に向けて言ったのだろう。窓枠の向こう、手の届かない星はちらちらと瞬く。準備室は紫色の夜に沈んでいく。
「今日は帰る」
 下着を履きなおして、かばんを背負った。

 さおりは今回も、私のささいな異変に気がついたようだった。私を見る目はどこか心配そうで、けれどあえて踏み込んでくることはしなかった。それが余計、しゃくに障った。
「かわいいんだから、早く彼氏でも作ればいいのに」
 いつもの昼休み、ひどい言葉を吐いた。さおりは目を見開いて、それから顔を伏せた。
「……でも、誰を好きになるか、誰と付き合うか、決めるのは私だよ」
 私は返事をしなかった。もそもそ、パンを口に詰め込んでしまうと、そうそうに席を立った。
「ごめん」
 さおりはすがるように私を見上げ、またすぐに俯いた。
 
 しばらく冬の晴れ間が続いた。雨は降らず、わだかまりは洗い流されないで、私とさおりの間に漂いつづけた。自然と、昼食も別々にとるようになった。私は学食を使った。甘いメニューはほとんどなくて、なんだか調子が狂う。さおりがどうしているかは知らなかった。知ろうともしなかった。一人の昼休みは時間が余って、けれど教室に戻ったらさおりの顔を見る気がして、ひとり、校内をぶらぶらした。理科準備室まで行くが、ひとけはない。通り過ぎる。ふと、窓から中庭が見える。いつものベンチ、さおりがぽつんと、座っていた。しょげた肩は気の毒なくらい小さく、お弁当を広げても、箸は進まない。
 ばか。
 呟いてみた。頭を振って、窓辺を離れた。

 課題を片付けようとかばんを開けたら、奥に、頭痛薬の箱を見つけた。いつだかさおりがくれたのだ。頭痛、つらそうだから。ちゃんと薬飲んでね。
 彼女の目の前で、二錠飲んだきり、そのままにしていた。その存在もほとんど忘れかけていた。
 テキストとプリントを机に広げるけれど、ペンは捗らない。いたずらに同じ文章で詰まって、何を答えたらいいのか、さっぱり頭に入ってこない。これは、ひとりで取り組まなければいけない。ため息と一緒に机に突っ伏して、スマホを開いた。
 慣れた指の動きは音声ファイルを再生する。くぐもっているけれど、確かに聞こえる。立花が私には聞かせない声。肉と肉がぶつかるときの音。
 このまま、海の底に沈んでいけたらいいと思った。私の身体と、音声と、頭痛薬を抱きしめて、冷たくて深い水に潜る。全部が温度を失って、何も見えなくなる。何も聞こえなくなる。最後には、水圧でぺしゃんこになる。

 私と対照に、立花は機嫌が良かった。普段なら敵意むきだしの私への視線も、この頃はどこか、からかいの色を含んでいる。さおりとの不和に勘づいたのだろう。あんなにべったりだった二人が、全然、言葉も交わさないのだから、少し観察すれば簡単だったはずだ。
 その日、私は多くを求めた。立花は口を手でふさいで声が出るのを我慢して、けれど時折こらえきれないで出てしまうのが私を切なくした。水の音も、隠せていない。白い内ももに歯を立てると、息を漏らして身体をよじらせた。
 気が済んで、解放すると、立花はぐったりと床に座り込んだ。荒い呼吸は、濡れた指をハンカチでぬぐっている間に少しずつ落ち着いて、やがて理科準備室は静けさに飲み込まれる。口元を拭いて、立花のつむじを見下ろす。
「あんなのの、どこが良いの」
 吐き出した声は、存外、反響した。立花は上気したままの顔を持ち上げる。私を、鼻で笑った。
「別に、理解できないならそれでいいよ。分かってもらいたい、とも思わないし」
「そんな関係、続くわけない」
 言葉はほとんど自動的だった。
「うかつにメッセージのやりとりもできない。休日、一緒に外も歩けない。月に二回、たかだか数十分、身体を重ねるだけ。外側に何も表明できない。何も、救いはない。それで、いったい何を維持できるっていうの。何を積み重ねられるの」
 言葉尻は重くなった。窓ガラスの反射、泣き出しそうな自分がいる。
 立花は噛み含めるように答えた。それでいいの。
「それでも、続けられるの」
 何か続けようとした彼女の唇に、かみつく。舌を重ねて、吸い上げて、その先の言葉を奪った。上書きするみたいに、卑猥な音を立てた。

「奥山ってさ、私のこと」
 立花は最後まで言わなかった。私は何も聞かないふりをして、準備室をあとにした。

 夜中に目が覚める。ひどい夢を見た。冬なのに、肌は汗ばんで気持ち悪い。
 内容ははっきりと覚えていた。焦げついて、燃え尽きて、そして何もいなくなる夢。
 午前二時。キッチンに下りて水を飲んだら、なんだか目が冴えてしまった。もう一度ベッドの上で丸くなると、冬の真夜中にいきものは絶えて、熱い空気の流束だけがびりびりと鼓膜を震わせた。散歩にでも出ようと思った。
 簡単に着替えて、家を出た。半分に割れた月が、凍りついて、死んでいた。

 さおりが学校を休んで二日経つ。クラスの担任は、風邪みたい、と言うだけだった。そうとしか、伝えられていないそうだ。さおりにメッセージを送ろうかと、スマホを開くと、最後のやりとりから既に二週間が経っていた。私は言葉が見つからなくて、結局、何もしなかった。
 昨晩の寝不足は頭痛をもたらした。三限が終わると保健室に逃げ込んで、浅く眠った。
 目が覚めると、昼休みだった。廊下を行き来する生徒の足音や話し声が、寝起きの頭にうすべったく届いた。小さく唸って、寝返りをうつと、ベッドの脇に彼女がいた。
「……立花」
「あ、起きた?」
 スマホで何か動画でも見ていたらしい彼女は、イヤホンを耳から外すと、私を覗きこんだ。その手が伸びて私の前髪をくしゃくしゃする。ほんのり冷たい指先が、寝起きの頭に気持ちいい。
「具合は?」
「ん……もう大丈夫」
「そう」
 私の顔は、不審の色でいっぱいだっただろう。それを汲んだのか、立花は、私、実は保健委員だったんだよね、とへらへら笑った。
「そうだっけ」
 分かりやすい嘘だった。
「そうそう。それを言ったら、佐々木先生に任されちゃった」
 ちょっと一服だってさ。立花はたばこを喫うまねをした。それから、立ち上がる。
「奥山も起きたし、そろそろ行くわ。お大事に」
「待って」
 カーテンをめくりかけた立花が振り返る。きょとんと、私が何を言い出すのか、待っている。
 目をつむった。つばを飲み込む。言葉は、ずっと前から用意してあった。
「……終わりにしよう。こんな関係」
 私は保健室の静けさを、いまはっきりと認識する。外側のまとまりのない断片たちは急速にこの世界から排除されていく。宇宙が膨張していくみたいにすべての要素はばらばらに引き離され、そしてこの星には、もはや私と立花しかいない。そのことを怖いくらいに、理解した。
 立花の見下ろす視線と、かち合う。彼女の目の色は透明で、私はその奥にある考えをすくい取ることはできなかった。やがて、椅子に座り直した。
「……あの子、学校来てないね。阿川さんだっけ?」
「そうだけど……」
 私は意味を、理解できない。目をぱちぱちさせると、立花の顔には嘲りの色が浮かぶ。
「見てもらいたいものがあるの」
 こんなこと、したくなかったんだけどね。彼女はスマホを取り出すと、画面を私に向けた。
 動画だった。なじみのある場所——積み上げられた段ボール、薬品棚、机の上の実験器具。そのなかに、さおりが立っていた。彼女はすっかり顔を青くして、襲われるのを待つだけの小動物みたいに、身体を小さく縮こませていた。
『準備はいい?』
 スマホから、立花の声がする。姿は見えない。
『あの……本当に、するんですか』
『あ、嫌なら、そう言ってね。無理やりしたいわけじゃないから……ま、断ったらどうなるかは、さっき言ったとおりだけど』
 さおりの目はきつく画面をにらみつけ(こんな顔、初めて見た)、それから観念するように、俯いた。
『……して、ください』
『よく言えました〜』
 画面が、暗転する。スマホがどこかに置かれたのだ。震えちゃって、かわいい。怖がらないで。音声だけは続いている。何かを吸う音。さおりの、すすり泣く声。
「……やめて」
「えぇ、これからがいいところなのに」
「いいから、やめてっ」
 立花は動画を停止させて、それから、心底いじわるな笑みを浮かべた。
「いい顔。それが見たかった」
「なんで……」
 いつ、こんなことが? なんでさおりが巻き込まれている? こんなことして、いったい何になるの?
 いっぺんに湧き出した問いは頭の中で渦巻いて、明確な形を取りだせない。代わりに、涙がぼろぼろとこぼれた。立花の指が、そっとぬぐった。そのまま、彼女は私に覆いかぶさる。唇と唇が触れて、立花のリップの匂いが鼻をくすぐる。舌は慣れたやり方で私の口内に侵入する。熱くて、悲しいくらい甘い。
 立花の舌は私を踏みにじる。自分じゃないみたいな声が喉の奥で鳴る。抵抗しようとして、手足をばたつかせるけれど、身体にうまく力が入らない。溺れるみたいに不格好で、私の徒労はむなしく、全部、立花が持っていく。
「はじめから録音してたんだ。奥山とのこと」
 涙とよだれでべちゃべちゃになった私を見下ろして、彼女は満足げだった。
「はっきり、目的があるわけじゃなかった。やられっぱなしは癪だったし、後で何かの役に立つかもって思って。録ったのをばらまくことも考えたけど、そうしたら仕返しに、青柳先生との音声を流すでしょ」
 立花が、何かをしゃべっている。
「そう考えると、割を食いそうなのは私たちだった。だから、録音だけじゃ何にもならない。何かもう一つ、必要だった」
 そして狡猾な蛇みたいに笑った。
「あんた達、いつも一緒にいるから、なかなか手が出せなかったの。でも、一人になったあの子に録音を聞かせて、これが広まったら奥山がどうなっちゃうか、匂わせたら、簡単だった」
「……よくも、そんなこと」
 口をついて出た言葉は、尻すぼみになる。立花は冷たい目で、私を見下ろした。

「でも、奥山からやめたいって言ってくるのは、考えてなかったな。これから、どうしてやろうか、色々考えてたのに」
 立花にしてみれば、この動画を見せても、見せなくても、たどり着く結末は同じだった。私が別れ話を持ちかけなければ、動画を私に見せて、脅し返せばいい。その必要がなくなってもなお、それをしたのは、いわば罪滅ぼしのようなものだった。まるで無意味に無実のクラスメートを傷つけたような気がしては、後味が悪いから。
 結局、立花はリセットすることを提案した。お互いに、手持ちのデータを放棄するのだ。彼女にしてみれば、私も、さおりも、端から眼中にない。水に流して、青柳先生との関係を維持できれば、それでいいのだった。

 予鈴が鳴った。
 関係するすべてのデータを消去した私たちの間を繋ぎ止めるものは、もう何もない。
「目、赤い」
 立花の手が私の頬をなでる。「もう少し、ゆっくりしてなよ。先生には適当に言っとくから」
 じゃあ、行くね。うすみどりのカーテンをめくって、彼女の姿はするりと消える。扉が開いて、そして閉まる音。足音は遠ざかって、やがて保健室は静寂のなかに落ちる。あたかも、ずっと初めからそうだったみたいに。
 けれど、さっきまで立花は、ここにいたのだ。
 いたずらに触れられた頬が、ひどく熱い。まぶたの裏側を光の断片が走った。理科準備室の人体模型。夕暮れに差す光。墜落した飛行機。薄暗い中に浮かび上がる肌の白。なにかを通じ合わせて、けれどそれは本質でないから、もう、手の届かないところへ行ってしまった。

 次の日の放課後、さおりの家を訪ねた。ベルを鳴らすとおばさんが出てきて、にっこりした。あら、ゆうかちゃん、わざわざありがとう。さおりったら何だか部屋でふさぎ込んじゃってね、熱はないみたいなんだけど、身体がだるいって。ゆうかちゃんが来てくれて、きっと喜ぶわ。私はあいまいに笑うよりなかった。
 おばさんに続いて二階へ上がる。さおりには連絡を入れていた。『今日の帰り、会いに行ってもいいかな』。既読はついて、返信はなかった。私は自分の息が浅くなるのを感じる。
 さおりの部屋の前、おばさんがノックを鳴らす。
「さおり。ゆうかちゃん来てくれたわよ」
 はぁいと、思っていたよりは元気な声が返ってきた。かちゃりとドアが開いて、茶色のパジャマを着たさおりがそこにいた。私を認めると、そっと目をそらした。
 すぐ飲みものを持ってくるから、とおばさんは出ていった。さおりの部屋に足を踏み入れると、時間の流れが遅れだした。電気はついていない。空気は灰色で、こもっていた。
 おばさんが戻ってくるまで、私たちは口を利かなかった。さおりはベッドに腰掛けて、私はベッドと勉強机のあいだの小さなテーブルの前に、座った。テーブルは、普段は折りたたんで仕舞われていて、人が来る時だけ、ひっぱりだしてくるのだった。
 淹れたての紅茶がふたつ並ぶ。さおりはすぐに口をつけて、熱い、と何かを保つためにはにかんだ。私もそれに応じようとして、けれど笑い声はいやに乾いていた。積み重ねて、維持したかったものは、きっともうぼろぼろに壊れていた。
「ごめんなさい」
 私は目を上げられなかった。紅茶の液面を見つめながら、謝った。「……さおりを、巻き込んだ。ひどい目に合わせた」
「終わりにしたの?」
 頷く。さおりは、そっか、と言うだけだった。飲みものを飲んで、しばらく、黙っていた。
 さおりは泣くかもしれないと思っていた。けれどその二つの目にもはや色はなかった。唇を持ち上げて、言った。
「それなら、もういいんだ。びっくりしたし、怖かったけど……もう終わったんなら、それで」
「……ほんと、ごめん。でも——」
 なんで、とは聞けなかった。さおりは私を一瞥すると、窓の向こうに顔を向けた。
 分かってるくせに。
 ほとんど、聞き取れない呟きだった。私はさおりのまねをしておもてに目をやった。薄いカーテンの向こうには何も見えない。今日は、新月だ。暦は巡って、けれど私たちは同じところには帰ってこられない。もう二度と。

 それからほどなくして、私とさおりは交際を始めた。明確な言葉はいらなかった——自然と私たちは、唇を重ねた。成り行き上、それはほとんど必然の結果だった。
 けれど私たちのそれは、甘やかさとは程遠い、憐憫と打算と罪の意識に満ちみちた関係だった。選んで一緒にいるくせに、お互いに気づまりで、軽い言葉を投げても、それはもう昔のようには機能しなかった。着地点を探る会話。空気の抜けたボールでバレーをするみたいだった。もう使いものにならない物体を、そうと気づかないふりをして、無理にやり取りしつづけた。
 そして身体を重ねることだけは欠かさなかった。私は頻繁にさおりを訪ねて、部屋のなか、声を殺して二人でそれにふけった。性交は私たちを一箇所に繋ぎとめる、錨のようなものだった。

「例えば、どこかで大爆発が起きるとするじゃない」
 夕暮れの坂道、私の言葉に、さおりは小首をかしげる。
「あそこの中華料理やさんで、ガスが漏れて、引火するとか。油を運ぶトラックが、交通事故を起こすとか……飛行機が突然、墜落するとか」
 その頃には、さおりは簡単な散歩くらいなら外に出られるようになっていた。深まっていく冬の風をかいで、くすぐったそうに、目を細めた。見上げた夜空の高いところ、銀色の翼がきらめく。
「それでさ、大ニュースになるの。たくさんの人が死んで、たくさんのものが壊れて、新聞の一面にそのことが載るの。テレビでも話題はそれで持ち切り。みんながそれについて話して、心を痛めて、取るに足らないものごとたちは、全部置いてきぼりをくうの——そうなったら、いいと思わない?」
 私はもう、炎の夢を見なかった。
 数秒考えてから、さおりはそっと私の手をとった。
「それが起こって、どうなると思うの?」
 私は答えを探して、けれど、うまく行かなかった。すくいあげようとして、するりと指のすきまからこぼれていったものに、もはや名前をつけることはできない。

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