雪のふる朝

 物音で、目が覚めた。
 私はゆっくりとまぶたを持ち上げる。カーテン越しに、夜明けの光が弱く射していた。それを見て私は、普段よりも早く目覚めたことを知る。
ねむたい目のままで、視線をぐるりと回す。寝起きの光景にしては見慣れないものだった。寝室ではなくて、リビング。ああそうか、と私は思い出す。昨晩は夜更かしをして、ここで人形作りをしていた。そして眠くなってしまって、そのままソファで寝てしまったのだ。私は上体を起こす。はらりと、毛布が一枚、私の身からすべりおちる。眠る前に毛布なんてかけたかしら、などと思案しながら、私は物音の方向——キッチンへと目を向ける。
 そしてキッチンに立つ後ろ姿を認める。すらりとしたシルエット。普段そこには見ない姿だ。けれど彼女は、ずっと前からここで暮らしているかのように、自然とキッチンの光景に溶け込んでいた。
 こんな朝も悪くない。私は小さく欠伸をして、それから彼女の名前を呼んだ。
「咲夜」
 すると、一瞬彼女の手が止まる。いい匂いがしているから、料理中なのだろう。そして咲夜は振り返り、こちらを向いた。
「あら、おはよう。もうしばらく起きないものかと思っていたわ」
「……そうね、今日は少し早起きかしら」
 咲夜の物音に起こされたようなものだ。ごめんなさいね、と咲夜は言った。でもまあ、食事を作ってくれているのだから、何も言うまい。
「あとどれくらいかしら」
「そうね、二十分くらい?」
「それじゃあ、もう少しだけ寝させて」
「……貴女ねぇ」
 咲夜が再びこちらを見て、ため息をつく。「せっかく恋人が来てるっていうのに、そんな態度をとるわけ?」
「ていうか、どうやって入ってきたのよ。鍵はかかっていたでしょ」
「鍵を開けたのよ」
「……あぁ」
 そういえば、そうだ。私はだいぶ昔に、咲夜にこの家の合鍵を渡しておいたのだ——今日に至るまで咲夜が一度も使わないものだから、私はすっかり忘れてしまったのだ。
 少し待ってて、と咲夜は言う。紅茶をいれるわ、と言葉を続けて、彼女はケトルに火をかけた。
 咲夜のいれる紅茶は美味しい。紅魔館まで出向いたときに一度飲んだことがあるが、あの味は私には出せない。咲夜の紅茶を飲んでしまえば、もう自分でいれた紅茶など飲む気になれないのだ。
 ところで、咲夜は紅魔館のメイド長である。そうであるから、当然咲夜は忙しい。猫みたいに気の向くままに暮らす私とは違うのである。
「ねえ」
 ベッドの中から声をかける。咲夜は振り返らないままで、なあに、と応じてくれた。
「こんなところに来て、いいの?」
「そうね」咲夜はやはり、こちらには背中を向けたままだ。「少しだけならお許しがでてるのよ」
 私は、ふうんと返事をする。少し、ということは、長居はできないのだろう。メイド長も大変だ。
 ケトルが音を立てる。ピー、という、怒った笛みたいな音。外の世界のものだそうで、沸騰したことを知らせてくれるその音を私は密かに気に入っていた。
 咲夜は急な音に一度びくりとして、それから火を消した。そしてこちらを向いて、
「……変わったものを持ってるのね」
「あげないわよ」
「残念」
 ちっとも残念ではなさそうな口調で、彼女はそう言った。
 ティーポットに、咲夜がお湯を注ぐ。私はその様子を見て、ようやくソファから抜け出した。寒い。
 私がテーブルに着くのと同時に、咲夜が紅茶のカップを渡してくれる。なみなみと注がれた飴色の液体は、優雅な香りを立てている。
 カップを手にして一口飲む。たっぷりとした風味と、かすかな甘さが喉を通る。咲夜が少し砂糖を加えたのだろう。美味しいと言ってやると、咲夜は満足そうに頷いて、調理へと戻った。
 なんの料理を作っているのか尋ねると、シチューという返事があった。シチューか、と呟く。冬の朝食に、シチューほどぴったりなものはない。咲夜の作る料理を食べるのは、初めてのことだった。私は紅茶を飲みながら、シチューを待つ。
 そこで私は、これが久しぶりの逢瀬であるというのに、まだ恋人らしいことを一度もしていない事にきづいた。咲夜を見れば、あとシチューを煮込むだけらしく、幾分手持ちぶさたのようだった。私は立ち上がって、咲夜の背中に抱き着く。
「……急に、どうしたの」
 わずかに上擦った声で咲夜は言った。私は思わず、くすりと笑う。そして、もう少し私に身長があればなあ、と思った。そうしたら、このかわいらしい恋人のつむじにキスできるのに、と。私はしばらくそうしていた。咲夜の背中に抱き着いたまま、彼女の体温や、銀の髪から香る甘やかな匂いを感じていた。咲夜は緊張しているのだろう、動きが多少ぎこちなくなっていた。
 できたわよ、と咲夜が言ったので、私は素直にテーブルに戻る。そして、咲夜お手製のシチューを喜々として待つ。まるで餌をもらう前の犬のよう。
食卓に、器によそられたシチューと、こんがりと焼いたトーストと、それから紅茶が並んだ。優雅な朝食だ。
「どうぞ」
 そう言って、咲夜は私の向かいの席に腰をかけた。空腹を覚えていた私は、すぐに食事にとりかかった。
 スプーンでシチューをすくって、口に運ぶ。熱いけれど、冬の朝はこれくらいがちょうどいい。
 それから私はトーストをかじり、シチューを口にして、それから紅茶を飲んだ。手が止まらなかった。
 そんな私の様子を、咲夜はおもしろそうに眺めていた。どことなく楽しそうでもある。おかしな人だ——、私はそんなことを思いながら、紅茶をすする。
「ねえ、アリス」
 咲夜がにこにことしたまま、私を呼んだ。シチューを口にしていた私は、ん、と声にならない音で応じる。
「キス、したい」
 咲夜はそんなことを言った。シチューを飲み下して、私は顔を上げる。いきなり何言ってるの、そう言ってやるつもりだった。けれど、それは叶わなかった。
 私が顔を上げたときには、既に咲夜の顔が目前に迫っていた。そうして私が一言も喋らないうちに、咲夜は私の髪を優しく撫でて、それから堂々と唇を塞いだ。
 突然のことに私は驚いて、けれどもすぐに目をつむって、久しぶりの口づけを味わった。本当に、久しぶりのキスであった。最後にしたのはいつだったろうか——まだ、随分と暑い頃だった気がする。
 長いキスだった。咲夜は時折、角度を変えては、情熱的に私の唇を貪った。咲夜もこんなキスができるのか、などと私はぼんやり考えた。
 今まで触れ合うような口づけばかりをしていた私達にとって、今回のキスは新鮮なものだった。咲夜が唇を離して、席に戻る。私は心臓が激しく高鳴っているのを感じた。咲夜の顔も紅潮している。
 それからの気まずさといったら。
 私たちは、まるで付き合い立ての頃に戻ったみたいに、お互いの存在を強く意識した。私はシチューを淡々と食べて、咲夜は外の景色を眺めていた。外では、雪が降り出したようである。どうりで寒いわけだ。
「……慣れないことは、するものじゃないわね」
 最後の一口を飲み干した私は、そう言ってから、紅茶に手を伸ばした。私の言葉に咲夜は笑う。まったくその通りだわ、と。
「——さて」
 不意に咲夜が立ち上がる。どうしたのか、と思って見ていると、咲夜は玄関へと歩いていくのだった。
 そういえば、そうだ。咲夜は紅魔館のメイド長なのである。
「帰るの?」
 尋ねると、咲夜は頷く。私は少し残念な気分になる。せっかく久しぶりに会えたのだ、もう少し一緒にいたかった。
 しかし我が儘を言うわけにはいかない。ここで咲夜を無理に引き止めれば、帰りが遅いということで、咲夜はあのお嬢様の機嫌を損ねることになる。私にとばっちりが来ることだって考えられる。私は彼女を送るべく、椅子から立ち上がる。
 咲夜は私のことを玄関で待っていた。私は、彼女が何も羽織ろうとしないのを見て、少し驚く。彼女は、防寒具も何もなしで、普段のメイド服姿だったのだ。
「なにも着てこなかったの?」
 彼女は苦笑まじりに頷いた。時間があまりなくて、急いでいたからね、と言う。時間を止めてしまえばいいようなものだが、咲夜は自分の特別な能力を日常的に使うことは避けているのだそうだ。
 仕方がないので、私は愛用のマフラーと手袋を彼女に貸すことにした。
「いいの?」咲夜が尋ねてくる。「貴女が着けるの、無くなるんじゃないの?」
「大丈夫よ。他にも持ってるから」
 私の言葉に咲夜は安心したようで、マフラーを首に巻いて、手袋をはめた。温かいわね、と咲夜が言う。なにせ私の手作りなのだから、そうでなくては困る。
 咲夜が玄関の戸を開ける。不意に冷たい空気が入り込んでくる。肌を刺すような、容赦のない冷気だ。私は思わず体を縮める。咲夜も同じだった。寒いのを我慢して、私たちはおもてへ出る。先程から降り出していた雪は、いささか積もり始めていた。このまま降り続ければ、明日の朝には辺り一面銀世界となっているだろう。
「それじゃあ」
 咲夜が手を軽く挙げる。お別れだ。私は咲夜の傍に寄って、それから彼女を軽く見上げて、目をつむった。
 ところが、いくら待ってもキスは来ない。目を開けると、咲夜は頬を染めて困っているようだった。
「別れ際のキスもできないの?」
「……そういうわけじゃなくて、アリスがこういうことしてくれるの初めてだから、新鮮だったのよ」
「ふぅん……」
 確かに、自分からキスをせびることはほとんどなかった。今回する気になったのは、別れを惜しむ気持ちからなのだろう。
 私は再び目をつむる。その数秒後に、咲夜が私の唇を塞ぐ。
 柔らかい感触であった。次にキスをするのはいつになるのだろう、などと考えると急に寂しく感じられた。
 唇が離れる。咄嗟に私は、もう一回、とねだるような口調で言った。
 仕方ないわね、咲夜はそう呟いて、再び私にキスをする。こんなことを言っているけれど、咲夜だってキスしたかったに決まっている。何せ最後のキスは、なかなか濃厚なものだったからだ。
「じゃあ、またね」
 咲夜が言った。私は頷く。マフラーと手袋、自分で返しに来なさいよ。そう言ってやると、彼女は笑った。
 咲夜が私から離れる。雪の積もり始めた森の中を、軽い足取りで進んでいく。私は彼女の背中を見つめていた。彼女の姿は少しずつ、小さくなっていく。
 外はひどく寒い。見送りもそこそこに、早いところ家に戻ろう、そう思ったときであった。
 咲夜が振り返った。そして、いまだに家に戻らない私を認めて、彼女は大きく手を振った。笑顔だった。私も嬉しくなって、大きく手を振り返す。また来るわ、咲夜がそう言っているように思えた。
 やがて、咲夜の姿は完全に見えなくなった。朝の森はとても静かで、遠くの咲夜の雪をふみしめる音や、その息づかいまで聞こえてきそうだった。私は冷たい空気をいっぱいに吸い込んでから、家へと戻った。
 咲夜のいれてくれた紅茶が、まだ残っている。私は席に着いて、ティーポットの紅茶をカップに注いだ。綺麗な飴色。私はそっと、カップに口をつける。ほっとする温かみが口に広がる。咲夜みたいだ、そう思った。
 彼女は次、いつやってくるのだろう。私はそんなことを考えながら、窓の外に目をやる。おもてでは、白い綿雪がひらひらとやわらかく、降り続けていた。

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