「さま」付け問題

「そろそろさ、私のこと『さま』付けで呼ぶの、やめない?」
 私がそう言うと、向かいの祐巳ちゃんは飲みかけのココアから顔を上げて、目をぱちくりとさせた。
「……急に、どうしたんですか。聖さま」
「ほら、私たちも次の段階に進むべきかな、って」
「次の段階……」
 祐巳ちゃんが難しい顔をつくる。お得意の百面相である。私はコーヒーのカップに口をつけて、笑い出しそうになるのをどうにか堪えるのだった。
 午後二時過ぎの喫茶店は、まずまずの混雑具合をみせていた。ほとんどの席が埋まり、客のそれぞれが思うままに、世間話であったり読書であったりをしている。ウェイターの忙しく動き回るのを横目に、私は手元のコーヒーカップをもてあそぶ。窓際の席は、冬の太陽が穏やかに差し込んで、気持がよかった。
 祐巳ちゃんは尚も眉根を寄せて考えているので、見かねて言葉を付け加える。
「つまり、もっと祐巳ちゃんと仲良くなりたいってこと」
「私たち、十分仲良いと思いますけど」
「そうじゃなくて、」
 私は小さく息を吐いた。祐巳ちゃんはこういうところで鈍感なのだった(そのくせ妙に鋭いところもあるのだ、彼女は不思議な娘だった)。きょとんとした祐巳ちゃんに向けて、私は少し声を抑えて言ってやる。「だから……恋人として、ってこと」
 私の言葉に祐巳ちゃんは、はっと目を瞬かせて、それから少し俯いた。その頬に優しい朱色の差しているのが見えて、私まで恥ずかしくなる。
 私たちの恋人としての歩みは、決して順調なものではなかった。他のカップルがどのようなペースでその仲を深めていくのかは知らないけれど、常識的に考えてみて、私たちのそれは随分とのろのろしたもののはずだった。恋人関係になって、もうしばらく経つけれど、私たちはまだ手を繋ぐことくらいしかしていないのだった(しかも、たったの一度だけであるし、おまけに、ここ最近になってようやく)。付き合いたての頃に、まだ始まったばかりなのだから、と自分に言い聞かせて、焦ることもないだろうとぼんやりしていたのがいけなかった。そのままずるずると自分へと言い訳をし続けて、今に至るわけである。
 蓉子は私のことをへたれと言う。私もその自覚が無いわけではないので、一言も言い返せないのだった(正直くやしい)。
「でも」
 祐巳ちゃんが俯いたままで言う。「急に呼び捨てなんて、無理ですよ」
 聖さまは聖さまです、なんて続ける。
「そうかな」
 試しに一回呼んでみてよ、と言うが、彼女は首を横に振る。お願い、と言っても承諾しない。頑なである。頭の動きに合わせてぴょこぴょこ揺れる左右のおさげが、おもちゃみたいで可愛らしかった。
 その後も、猫なで声などで何度か頼んでみたけれど、結局彼女は頷かなかった。
「呼び捨てじゃなくてもいいからさ」
「じゃあ、例えば何て呼べばいいんです」
「……聖ちゃん、とか?」
「なおさら無理ですっ」
 祐巳ちゃんが真っ赤な顔で抗議するのを見ながら、私もそれはないな、と思った。自分で提案していながら、祐巳ちゃんに「聖ちゃん」と呼ばれる自分など、少しも想像がつかないのだ。
「……そんなに言うなら、聖さまの方から呼び方を変えたらどうですか」
「えっ」
 祐巳ちゃんが少し恨めしげな目でこちらを見ていた。祐巳ちゃんからの反撃など米粒ほどにも考慮していなかったので、彼女の言葉に私はすっかり慌ててしまった。
「……いや、でも、ほら」
 私は平静を装って、コーヒーカップに口をつける。「私は、古き良きリリアンの伝統に則ってね、」 
 リリアンにおいて、先輩が後輩を呼ぶときは、名前に「さん」付けか「ちゃん」付けが基本である(親しければ呼び捨でも構わないのだが、この情報は私にとって都合が悪いのでふせておく)。祐巳ちゃんのことを呼び捨てで呼ぶのは彼女のお姉様くらいなのだ。
「だったら、私もその古き良き伝統に則ってるんです」
 下級生が上級生を呼ぶ時は、「さま」付けが常である。姉妹に限って、「お姉様」と呼ぶことが認められる。
 リリアンの伝統を持ってこられると、私のほうが分が悪かった。上級生が下級生を呼び捨てにするのは、まだあり得るとしても、下級生が上級生を「さま」も付けずに呼ぶというのはずっと考えられないことなのだった。
 見事な墓穴をほったものだ、と私は小さくため息をつく。頭は少しばかり回るほうだと思っていたけれど、祐巳ちゃんの前ではそうも行かないらしかった。
 祐巳ちゃんがこちらをじっと見ている。私はそれに向き合えずに、コーヒーカップの中に視線を落としている。ここで私が祐巳ちゃんを呼び捨てにできれば、祐巳ちゃんも私の呼び方を変えざるを得ない。一方、私はこの場で提案を取り下げることもできるのだった。やっぱりこの話は無し、と言って、別の話題を提供すればいいのだ。というより、私の気持は断然後者に傾いていた。この辺りが蓉子にへたれ呼ばわりされる所以なのだろうな、と思っていると、頭の中に彼女の顔が浮かぶ。彼女はいつもするみたいに、目を細くして私をじっと睨む。その口の開きかけたところで、私は彼女を追い払う。口を開けば、お小言ばかりなのだ。分かった、分かりました、と蓉子に言い聞かせて、私は顔を上げる。
 祐巳ちゃんと視線が合う。その頬が心なし上気している。私はこの場から逃げ出したい気持に駆られた。しかし蓉子がそれを許してくれないので、私はどうにかして、
「…………ゆ、み」
 彼女の名前を、絞り出した。
 新鮮だった。本来あるべき「ちゃん」を取り除いただけで、その人でない別の誰かを呼んでいる気にもなるし、他の誰でもないその人に、ぴったり狙いを定めて呼んでいるような気にもなる。その欠落は妙にこそばゆくて、落ち着かなくて、心地の良いものだった。
 祐巳ちゃんの頬がかあっと、赤く染まる。私は、更に気恥ずかしくなってしまう。心臓の音がどきどきとうるさく、顔が熱くなってくる。
「次は」私はごくりと、つばを飲み込む。「次は……祐巳の番だよ」
 祐巳ちゃんがココアのカップに口をつける。そして、すっかり温くなってしまったそれをごくりごくりと飲んだ。カップを戻すと、祐巳ちゃんの口の周りに少しココアがついていた。私はそれを可笑しく思って、普段なら笑ってしまうのだろうけれど、今はちっとも笑えなかった。ただ、こちらを見つめる祐巳ちゃんの視線に応えるだけで、精一杯なのだった。
 周りの雑談も、ウェイターの足音も、カップの立てる固い音も、すうっと遠くになる。そうして祐巳ちゃんのうるむ瞳と、桃色の頬と、かわいらしいその唇の動きだけが、鮮やかな現実味を帯びていた。
「……聖、」
 彼女の小さな声が、私の鼓膜を震わす。その瞬間に私はぐいと現実に引き戻され、周りの雑談と、ウェイターの足音と、カップの立てる固い音が意識の内に帰ってくる。私は自分の顔を覆った。こんな穏やかな午後の日に、こんな平和な喫茶店で、私たちは何をやっているのだろう、と思った。体がほてって、店内の暖房がいやに暑く感じられて仕方がなかった。
 私は呟くようにして言った。
「……なし、だね」
「そうですね……」
 そもそも、呼び方で距離や仲を測れるものではないのだ。そんな言い訳みたいな帰結を自分に言い聞かせて、私は覆いを外す。すると、ばっちりと、祐巳ちゃんと目が合う。彼女は一旦私から視線をそらして俯いて、それから上目づかい気味に、こちらをちらと見た。
「……でも、私は聖さまともっと仲良くなりたいですよ、」そして、恥ずかしそうにしたままで、 「——恋人、として」
 そう、付け加える。
 その一言は卑怯だ、と思った。私はコーヒーカップ片手に、自分自身がどうにかなってしまわないように必死になる。祐巳ちゃんは、私を狂わせる。それだから彼女は油断がならなくて、私はそんな彼女が、とても、大好きなのだった。
「すき」祐巳ちゃんだけに聞こえる声で言う。
「祐巳ちゃんのことが、すき」
 祐巳ちゃんは私の言葉に、頬をゆるゆるに緩めて笑う。そして、「私も、聖さまが大好きです」と言った。私たちは顔を見合わせて、それからふふふと笑う。窓から差し込む午後の光は穏やかで、私たちは、恋人として一歩前に踏み出したように思えた。喫茶店には相変わらず、趣味のよさげなジャズが、ゆったりと流れていた。

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