予感

 あかり、最近おかしいの。
 洗面台の二本の歯ブラシ、部屋に馴染んだ京子ちゃんの私物、冷蔵庫を開けてみれば、たくさんのラムレーズンのストック。いつでも当たり前にあったものたち。いつからか、あかりはそれらを、とても当たり前には受け入れられなくなってしまった。
「食べたい味、あった?」
 冷凍庫のなかをじっくり眺めているあかりに、結衣ちゃんが不思議がって声をかけてくる。私はどのアイスを食べようか考えながら、
「ラムレーズン、たくさんあるね」
「ああ、用意しとかないと京子に怒られるから」
 そう言って、結衣ちゃんは笑った。当の京子ちゃんは、ちなつちゃんと一緒にお風呂に入っているところだった。
「別に、ラムレーズンでもいいんだぞ」
「いいの?」
「京子の分はあるから」
「うーん」あかりは全く別のアイスを手にしながら応じる。「でもいいや。京子ちゃんに悪いし」
 結衣ちゃんは、そっかと言っただけだった。
 あかりは入手したてのカップアイスを片手に、テレビの前へと移動する。画面はなんだかよく分からないバラエティ番組を流している。あかりはそれをぼんやりと見ながら、カップアイスのふたを開ける。お風呂あがりにアイスを食べるような習慣は赤座家にはないので、なんだか新鮮だった。
 水音がしたので振り返ると、結衣ちゃんが洗い物を始めたところだった。
「あかり、手伝おっか?」
「いや、いいよ。手伝ってる間にアイス溶けちゃうぞ」
「まだ出したばっかりだから」
 あかりはそう言ってテレビの前を離れると、結衣ちゃんの隣に立つ。彼女は呆れたふうに笑うと、あかりにタオルを手渡す。
「それじゃあ、洗い終わったお皿を拭いてもらえるかな」
「はーい」
 あかりは早速、結衣ちゃんに指示された通り動く。一枚拭いてはまた一枚、一枚拭いてはまた一枚。結衣ちゃんの洗い終えたばかりのお皿を拭いていく。
「無理して手伝うことなかったのに」
 結衣ちゃんが言う。その言葉には、あかりに対する申し訳なさと感謝がこめられているように思えた。あかりは大きめのお皿を受け取りながら(今日の夕食はオムライスだった)、彼女に答える。
「あかりが手伝いたくて手伝ってるんだから、結衣ちゃんは気にすることないよぉ」
「あかりは、いい子だな」結衣ちゃんは小さく笑った。「でも、助かるよ。京子のやつ、私が洗い物してる間はゲームしてるか漫画よんでるかのどっちかだからさ」
 また、京子ちゃんのお話。
 ほんと勘弁してほしいよ、などと言いながら、結衣ちゃんは洗い物を続けている。表情にこそ現れていないが、その口調に、少し楽しげな調子が含まれている。京子ちゃんの話をするときはいつもそう。結衣ちゃんはどこか嬉しそうに、あかりやちなつちゃんに、京子ちゃんの話をするのだ。
 あかり、最近おかしいの。
 小さい声でそう呟いてみた。蛇口からは勢いよく水が流れ、シンクで弾けてばしゃばしゃと音を立てた。テレビからは一際大きな、芸人さんたちのげらげら笑い、そしてお風呂場の方から、「上がったよー」という京子ちゃんの声。だから、聞かれないと思った。けれど次のお皿がいつまで待っても来ないので、顔を上げると、そこには真剣な目をした結衣ちゃんがいた。
「おかしいって、具合でも悪いのか?」
「え……あっうん。そうなのっ、なんだか咳が止まらなくて」
「風邪かな」
 結衣ちゃんがタオルで手を拭う。その手がまっすぐにあかりに伸びてくる。一秒遅れて、ひんやりとしたつめたさが額に走る。あかりは息が止まりそうになった。
「……うーん、熱はなさそうだけど——なんだか、顔が赤いぞ?」
「き、気のせいだよお」
 ねー、結衣ー! と京子ちゃんの大きな声。バスタオル足りないんだけどー!
 自分で探せよな、と結衣ちゃんは返すと、それからちらりとあかりを窺う。あかりは笑顔を作って、
「あかりは大丈夫だよぉ」
「そっか……でも、何かあったらちゃんと言うんだぞ」
 そして結衣ちゃんはお風呂場の方へ消えていった。
 あかりはその場にへたり込んでしまう。洗い物の続きをしなきゃ、そう思うのに、視界がぐらぐらと歪んで、体中が熱をもって、呼吸のしかたを忘れて、それなのに額のつめたさだけが依然としてそこにあった。まるで、おでこだけの生き物になってしまったみたい。
「——あかりちゃん?」
 先に着替えを終えて出てきたちなつちゃんが、不思議そうに尋ねてきた。「そんなところで、どうしたの」
「ううん、なんでも」
 ないよ、と続けようと顔を上げた瞬間、ちなつちゃんと視線が合わさって、あかりはあかりを映す結衣ちゃんの目を思い出していた。そして、これから何度でもそれを思い返す、そんな予感がつめたく体を貫いた。
「……あかり、」お風呂場から楽しそうなやりとりが聞こえる。「最近、おかしいの」

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