Motion Sickness

 さいきんはPhoebe Bridgers(フィービー・ブリッジャーズ、と読むらしいです)のアルバム"Stranger in the Alps"ばっかり聴いてる。アコースティックと音響系の合いの子みたいな感じ。歌声もきれいで、曲も上品に甘い。
 なかでも"Motion Sickness"という一曲があたまから離れなくて、これが本当にいい曲なんです。ずっとリピートで聴いてしまう。タイトルは乗り物酔い、という意味。



 それで、どんな歌詞なんだろうとネットで調べたりすると、ん、となることがあったので、今日は勝手に解釈していこうと思います。正しさに責任は負いません。

 サビのところは、

I have emotional motion sickness
Somebody roll the windows down
There are no words in the English language
I could scream to drown you out

と歌っているんですけど、これは簡単に訳すと、

心が乗り物酔いなの
ねぇ誰か、窓を開けて
英語じゃとても表現できない
(もしできるなら)叫んで、あなたを打ち消すのに

 くらいでしょうか?(自信なし……四行目のcouldはたぶん仮定法だと中学生の頃の私が言っている)。
 roll windows downで「(車の)窓を開ける」だそうです。窓が抜けてroll downだけなら自動詞で「転落する」ですが。
 あとdrown outで「消す、打ち消す」の意味。これらはググりました。

   さて。
 「心が乗り物酔い」って、何よ? というかそもそも、ふつうの乗り物酔いもしたことがないので、この感じがさっぱりわからない。それでちょっと思い出してみる。昔、ともだちと遊園地に行ってジェットコースターに……正確にはコースターではないけど、やたらとぐるぐる回ったりする乗り物に乗っている最中、あたまや手足の先から血の気がどんどんと引いていって、降りたあとも、ぐわんぐわんとまだ揺れているみたいでしばらく動けなかったのを。乗り物酔いってたぶんあんな感じでしょうか?
 そう思うと、この歌は恋のことをうたっているんだな、と気がつく。こーいーしちゃったんだ、ってやつだ。たぶんきづいてないでしょ? のやつ。あれの、もっと激しいバージョン。心が揺さぶられて、前後不覚、どこにもよりどころがなくて、どうしたらいいかちょっと分からないような、そんな感覚。
 この詩の主人公はプライドが高いというか、分別のあるひとだと思う。だって、couldだから。もしできるなら、だ。実際には叫んだりしない。たぶん何もしないで、平然をよそおう。実は曲の大サビでも、

I have emotional motion sickness
I try to stay clean and live without

 と歌っている。クリーンでいようと、(乗り物酔いなしで)生きていこうと、努めている。でも心の一方はひどく、激しく燃え上がっている。ひとりの胸のうちに起こる感情のせめぎあい。そういう一瞬を切り取った、美しい詩だなぁと思う。

愛してません 8

 アルコールのすっかり蒸発しきった翌朝は奇妙だ。昨晩お酒を飲んだという記憶だけが頭のかたすみにあって、身体も、脳みそも、その形跡を残さない。酔いと怒りとけんかのことばなんて、何もなかった。そんな錯覚にかかるくらいさわやかに目が覚める。あれは夜の見せた夢だったのかしら。けれど私はいつだって正しい記憶を取り戻せる。それは真貴のおかげだった。
 今朝もそうだ。すてきに白い朝陽にくすぐられて、ちょっと愉快でさえある気分で起き出してみれば、アルコール分解の副産物にすっかりやられてグロッキーな真貴を隣に発見するのだった。彼女はけだるそうに寝返りをうって、あたまがいたいのと言った。
「あさごはんいらない」
 その声は不機嫌に低い。「水をもらえる」
 それで私は昨日のことをすっかり思い出すのだ。
「私より飲まなかったくせに」
 冷蔵庫から水をとって、サイドテーブルに置いてやった。そして朝食はひとりだった。
 レストランに下りればスープと、たまごの焼ける匂いに混じって、あの黒髪美人のきびきびの足音が聞こえた。パンとスープだけ取って席についたとき目があって、彼女は優雅にくちびるのはしを持ち上げてみせた。きれいな笑顔だ、と思った。真貴がめろめろになるわけだ。
 ひとりの朝食はのびのびとして少しさみしい。食器のこすれる音、低いくぐもった会話、コーヒーメーカーのうなる音。ここには真貴のはしゃぎ声はない。それが気楽だった。気楽で、ピースの足りないパズルのような、きまりのわるさ。真貴のいないところで彼女のことを考えるのは気恥ずかしい思いがした。私はひとりでやっていける。窓ぎわ、光のなかでそう考える。私はひとりで旅をつづけることだってできる。けれどパンをちぎって口のなかに放り込むとき、彼女のことを、彼女との昨晩のやりとりを思い返す自分がいるのだった。
 すきっていって。
 真貴は何度だってそのことばを繰り返す。愛してるっていって。私は彼女の望みのものを与えたつもりだった。彼女は分からず屋だし、私は本当に顔から火の出る思いがする。
 愛してません、なんて。
 そんなことば、恥ずかしい。まぁ、私も酔っていた。あれはアルコールのせいにしておこう。それに、どうせ、真貴には伝わっていない。それで安心。
 身軽に部屋に戻れば真貴がベッドから抜け出して荷造りをしていたので驚いた。
「宿酔いは平気なの」
「えぇ」
 顔色で、すぐに嘘だと分かった。そう指摘すると、彼女は肩をすくめてみせた。
「旅程だとお昼前の列車に乗らなくちゃ」
「そうだけど、」
 あなた、いつだってのんびりしているくせに今日に限っててきぱきして。そう言いかけて、気がついた。私に気を遣っているのだ。いつだってあらかじめ立てた計画にこだわるのは私だった。それで私の期待に添うべく、ずきずきの頭をどうにか持ち上げて、片付けをしているのだ。
 無理しちゃって。
 私はベッドに腰をかけた。
「ゆっくり眠ったほうがいいよ」
「そんなことしてたら遅れちゃう」
「それでもいいって、言ってるの」
 真貴は驚いて私を見た。目をぱちぱちさせて、だって、とか、それじゃ、とか口のなかで舌をばたつかせる。私はおかしくて笑ってしまう。
「ね、二度寝して気分がよくなったら、コーヒーでも飲みにいきましょうよ」
「……いいの」
「もちろん」
 真貴はようやく頬をゆるめた。すてきね。そういって私の隣に腰かける。甘いボディソープのかおり。眠気覚ましにシャワーを浴びたのだと分かった。
「じゃ、さやかも眠る?」
「私? 私は——」
「一緒に寝ましょうよ、ね」
 だって、こんなにいい天気だもの。
 それで、ベッドの中に押し込められてしまった。ちっとも眠るつもりなんてなかったのに、真貴のぴったりの体温と香りに誘われて少しの惰眠をむさぼった。次に目覚めれば隣には天下泰平の寝顔があって、私は彼女のほほにかかった黒髪に指を絡めた。
 愛してません。ええ、愛してませんとも。

愛してません 9

 すべてのものを投げうってこの旅に臨んでいたつもりだった。少なくとも、私のほうは確かにそうだった。そんな自負があった。
 私はきれいに整頓してきた自室と、ものかき机に一葉のこしてきた手紙のことを思う。あれを書くとき——私はそれにひどく苦労した。私のいなくなった世界で、私を失ったひとたちが何をどう感じるか、それは想像のおよばない、非現実的なことがらだった。現実だったのは、部屋のすみでそっと時間を待つ、整えられた荷物だけだった。その気配をひしひしと背中で感じた。私は、真貴と旅に出る。終着点は決まっている。もう、ここには帰ってこない。
 それで、変に飾らずにそのことを書いた。この手紙をはじめに読むのは、家賃の振り込まれないことを訝しんで部屋を訪ねてきた大家さんだろうから、一行目には、大家さんへ、と書いた——家賃の振り込みをさぼってすみません。悪気はなかったのです。私は誰にも、何も言わないでここを去る必要があったし、旅費にも決して余裕があるわけではないのです。
 次に両親に宛てて書いた。あなたたちに罪はありません。ふたりで行くことと思いますが、私は確かにひとりで、この選択を選びました。私はそのことに、誇りを持とうと思います。
 友人と、大学の先生のことも考えた。それで終わりにしようと思ったけれど、最後の一行、真貴へ、と書き足して、彼女がこれを読むことはないとそう分かっていながら、ひとことだけ、ことばを紡いだ。そのペンの重さ。夜の列車で発つことに決まっていたから、部屋中の電気をけして、荷物片手に玄関を去るとき振り返れば、窓からの半月のうすあかりがものかき机に残した便箋にひかりを落としていた。私は足が鉛になってしまったようだった。
 ここには帰らない。
 もう一度、胸の中で繰り返した。そうして部屋を出た。私のそれだけの決意の、苦味と爽快。
 それなのに、真貴ときたら。
「——私の苦悩を思ってよ」
「そうは言ってもねぇ」
 彼女はコーヒー片手に苦笑した。静かで丁寧な通りに面した、喫茶店のテラス席に私たちはいた。穏やかな昼下がりの温度。
 真貴はまだ手紙を書いていない、というのだった。
「どうするの、ひとことも残さないで済ませるつもり?」
「そうじゃないけど、ひとり暮らしのさやかとは事情が違うのよ。家にはお父さんもお母さんもいるし、使用人だっているんだから」
 手紙なんて残したら、すぐに大騒ぎになっちゃうわ。自慢、と尋ねると真貴は小さく笑った。
 結局彼女は、旅のながらで手紙をしたためて、適当なホテルから自宅あてにそれを投函するつもりらしかった。気楽なことだ、と私は思った。
「不満?」
 真貴は首を傾げて訊いた。私は肩をすくめる。荷物にまぎれた写真を発見したときから、彼女のこの旅へのスタンスは分かっているつもりだった。
「行動で表すのが苦手なの」
 でもね、真貴はことばを続ける。「気持ちは本当。そのこと、分かってくれる」
 私は黙ってコーヒーをすすった。真貴の視線が私の顔に注がれているのに気がついた。
 私は、陽差しがまぶしい。テーブルの下、彼女の足先をかるく蹴った。

 私たちはもう一泊この町に宿泊するつもりだったが、コーヒーを終えてホテルに戻ったとき、その考えを変更しなくてはならなかった。
「タツミさまにお電話がありました」
 受付の女の人が、私たちの戻ってくるのを見るなりそう言った。タツミとは、真貴の苗字だ。私たちは顔を見合わせた。

モヒート

「恋というのは大別すると二種類のものがあるんだよ。一つは身も心も元気にしてくれる恋、そしてもう一つは、まったく逆の作用をもたらす恋」
 大衆酒場の向かいあった席で、あの人はそんな講釈をたれた。私はだまってそれを聞いていた。そのまつげの先や、かたちのいいあごなんかをぼんやり見ながら。
 このごろ私は自殺念慮にとらわれていた。けれど死んでしまうのは恐ろしいから、ゆるやかな毒を好んで摂取していた。灰色の煙。拡張された身体をちりちり燃やすことはまるで毒の煙の作用が顕現化したかのように思える。私は私を誰かに殺してもらいたかった。けれどけりをつけるのは最後には自分自身だと、あたまのどこかでしっかり分かっていた。それが問題だった。私はまったく絶望していた。
 つまらないひとことさえも私の海馬にひっかかって、ふっと、それが目の前に降ってくるときがある。そんな神様の気まぐれといたずらに私は面白いくらいにかき乱される。死ぬことが叶わないなら、せめて、記憶をなくしてしまいたい。あのできごとも、この考え事も、私のなかから消し去って、あとかたなく、まっさらなシーツの上で、ぐっすり眠れる日が来ればいい。
 あなたは、恋には二種類あると言いましたね。
 それで言うと、私はいま、後者にとらわれているんです。自分がひどく弱くなってしまったように感じるんです。些細なことでくよくよして、思い詰めて、もう死ぬしかない、そんな考えで脳みそがいっぱいになってしまうんです。このごろは、椿が咲きました。その赤は、死ぬことを暗示しているんですよ。あなたはそのメッセージを、ちゃんと汲んでいますか?
 あなたはまるで知らんぷりをした。
 なにが二つの恋を分かつのか? それは卑屈性である。屈折した人間の恋はその人間をじわじわ殺すのである。あなたはたばこを喫っていた。そうして大衆酒場の夜はそっと更けていった。

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