ラム入りの紅茶

 たまには陽の光に当ててやるか、と思い立ち、レジ横に飾られたサボテンを店の外に出してみた。午前七時すぎ。緩やかな坂道になっている通りには朝日が気持ちよく当たり、私は目を細めて、まだ冷たい外の空気をいっぱいに吸った。ちらほらと、通勤のために駅へ向かう人の姿が見える。あるいは、部屋着のままでゴミ出しをする人たち。大通りの方からは車の走る音が聞こえていて、私は街が、ひいては人々の営みが動き始めたのを感じる。
 店に戻って、八時の開店に向けて諸々の支度をした。ここは小さな喫茶店で、紅茶とコーヒーと軽食を提供している。お昼時には簡単な食事も出す。夕方にはお店を閉めるが、例外的に水曜日と金曜日だけは夜も営業する(その時間帯にはお酒も飲める)。「物を少なく」がこのお店のテーマで、だから装飾物はできる限り置かないようにしている——レジ横のサボテンが数少ない例外だ。お店の窓から朝日が差し込んで、木目柄のテーブルに光を当てる。ふきんでその辺りを拭いている時、おもてでがしゃりと鈍い音がした。何かしらと外に出てみれば、いつもの猫がサボテンの鉢を倒しているのだった。
「あ、こらっ」
 そう叱りつけると、そいつは体をびくりとさせて、あっという間にその場を去っていった。私は彼の消えていった先を憤然と睨んで、それから小さくため息をついた。かわいそうなサボテン。慎重に鉢を立て直すと、運良く土が少しこぼれただけで、サボテン自体は無傷のようだった。
「よかったね、サボテンちゃん」
「一人で何言ってるの」
 私はびっくりして顔を上げた。そこには、呆れ顔のさやかが立っていた。深緑のニットセーターの上に、薄い色のトレンチコートを羽織っている。
「さやか。今日は随分と早いのね」
 彼女は坂を下りたところにある出版会社で働いている。しかし、私の言葉に彼女はかぶりを振った。「逆よ、逆」
「逆?」
「今から帰るところなの、私」
「……徹夜明け?」
 小さく頷くさやかに、私はお疲れさまです、と言わないではいられなかった。
「もう、本当大変。下の仕事が遅かった皺寄せが全部私のところにやってきて」
「なんとか一息ついたの?」
 さやかは頷いて、そして腕を組んで体を小さくした。「だめね、徹夜明けは体が冷えちゃって……さっさと帰ろう、と思ってたのだけど」
「だけど?」
「偶然クロを見かけて、追いかけてたらここまで来てたの」
 クロとは、先ほどサボテンを倒していったあいつだ。黒猫だからクロと、非常に安直なネーミングで以ってさやかは奴を呼んでいる。私は彼女の綺麗な顔を覗き込む。疲労と眠気を滲ませたその表情。けれど、彼女の美しさは少しだって損なわれてはいないのだった。
「ね、もし良かったら紅茶でも飲んでいく?」
「でもいいの? まだ開いてないでしょう」
「いいの。あなたを労いたいの」
 それに、さやかは特別だ。
 私の言葉に彼女は笑みを見せて、ごちそうになるわ、と言った。私はあの黒猫に内心で感謝しながら、お店の扉を開けて——ちりんと小さくベルが鳴る——さやかを中に入れてあげる。体が暖まるように、ラム入りの紅茶を作ってあげるつもりだった。

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