崩れる

 夜中の二時半に、不意に目が覚めた。
 ゆっくりと瞼を持ち上げてみれば、真っ暗な部屋の様子が目に入る。私はいちど寝返りを打って、私の隣で眠る彩の様子をうかがう。彼女はぐっすりと眠っているようで、穏やかな海を想起させる感じでその胸のあたりが規則正しく上下している。深夜の二時半ともなると起きている人も少ないもので、おもてからは何の音も聞こえなかった。ただ掛け時計の、淡々と時間を刻む音だけが聞こえていた。
 私はなんだか、すっかり目が冴えてしまっているのだった。目をつむっても、一向に眠気のやってくる気配がないのである。どうしたものか、と私は考える。眠りについたのが十一時を回った頃だったから、おおよそ三時間は眠っていたことになる。人の睡眠周期は一時間半であるとどこかで聞いていたので、なるほど、道理ですっきりと目が覚めたわけだ、と私は独り納得するのだった。
 眠れないので、起き抜けて何か本でも読もうかと思ったが、余計な灯りをつけて彩を起こしてしまっては可哀想だった。こうして横になっていればそのうち眠 れるだろうと、私はそのままベッドに居続けることにした。
 カーテンの僅かな隙間から、力の弱い月明かりが射していた。私はひそやかに、彩の横顔を見つめていた。彩は綺麗な女の子だった。それこそ、絵に描いたような美少女なのであった。私は、その顎の美しい輪郭や、長く、形の整った睫毛や、なにかの果実を思わせるようにぷっくりとして、薄く色づいた唇を、それはそれは熱心に眺めるのだった。彼女の顔の造形をこうまでじっくり見ることのできるのは、彼女がすっかり眠ってしまっているような時くらいなのだった(普段は恥ずかしがって、なかなかそうさせてはもらえないのだ)。
 私は上体を起こして、ゆっくりと彩の上に馬乗りになる。私の重みにも彩は目を覚ますことはなく、何やらむにゃむにゃと、幸せそうな寝言を発するのだった。
 私は上から、彩を見つめる。指先でその、墨を流したように黒い髪に触れる。そうしてから滑らかな頬を撫でて、すっと通った鼻筋をなぞり、その首に手を置く。
 白くて、細い首だった。力を込めてしまえば、折れてしまいそうだった。
 私はその首を優しく掴む。私は、まだ少女と呼ばれるような齢だったころ、随分とトランプに熱を上げた。トランプといっても、ババ抜きや七並べやポーカーに興じていたわけではない。私が夢中になったのは、トランプタワーをつくることだった。暇さえあれば、私はそれに熱心に取り組んでいたように思う。その醍醐味は、完成したタワーを崩すところにあった。自分が苦労して何重にも重ねたそのタワーは、指先がすこし触れた程度の衝撃で、ぼろぼろと崩れ落ちていくのである。私はその光景に、なんども心を躍らせた。胸がきゅうと苦しくなって、恐ろしいほどの興奮を覚えるのだった。いままで確かにそこに形を保っていたものが、たやすくその秩序を乱す。私にはその過程が、ひどく美しいもののように思えた。後にも先にも、私がそれほどまでに心を動かしたことは、一度もなかった。
 成長してからは、トランプタワーに充てる時間は少なくなった。私が幼い頃にくらべ忙しくなったというのも一つあるだろうが、その大きな理由は、トランプタワーの崩れ落ちる程度のことでは、私の性癖が満足しなくなってしまったというところにある。私は自然と、もっと美しく、私の心を揺り動かすような崩壊の過程を追い求めていた。
 そうして手に入れたのが、彩だった。彩は、私にとってのトランプタワーだった。
 私の渾身の力をもってして、この細い首を締め上げたらどうなるだろうか、と私は考える。それはおそろしく甘美な妄想だった。私の掌のしたでのたうち回る血の管と、柔らかい肉。彩は目に涙をいっぱいためて、その普段の表情からは想像もできないような、醜い苦悶の色を浮かべるのだろう。そうして、息の苦しさに喘ぎながら、何度も私の名前を呼ぶのだ。ちひろ、ちひろ、ちひろ——。
「……ちひろ?」
 どこか寝ぼけたような声が聞こえて、私は慌ててその首から手を離す。私の下で、彩が眠たそうに目をこすっている。
「……どうしたの、ちひろ。そんなに息荒くして」
「い、いや、変なことはしてないよ。本当に」
「……ならいいけど」
「ただ、彩の首、細いなあって」私はその首筋をなぞりながら続ける。「締めたら、どうなるのかな、って」
 彩は目をぱちぱちとさせる。それから笑みを含む表情で、
「締めてみたい?」
 それは、突然の誘惑だった。私はごくりと、生唾をのみこむ。
「……いいの?」
「ちひろが締めたいっていうなら、いいよ」
 その顔には、少しもためらうような色はなかった。まだ寝ぼけていて、意味も分からないままに会話をしているのではないか、と疑いたくなるほどだった。しかし彩の表情は普段のそれと特に変わらず、少しも寝ぼけているふうには見えなかった。
 おそるおそる、私は彩の首に手をかける。
「本当に、いいの?」
 私がそう尋ねると、彩は小さく頷いた。ようやく、この瞬間がきたのだ、と私は思った。高く積み上げたトランプタワーを、一思いに崩してしまう瞬間だ。それじゃあ、いくよ。その言葉とともに、私はゆっくりと、首にかける力を強めていく。
 首を絞めはじめてまもなく、呼吸が苦しくなってきたと見えて、彩の表情が苦しそうなそれになる。私は勢い余って折ってしまわないよう両手の力を加減しながら、その様子をねっとりと見つめる。彩の目には涙がたまりはじめていて、彼女が瞬きをする度に、真珠の粒が彼女の頬を流れていく。それは淡い月明かりを艶やかに反射して、いよいよ私には宝石のように思えるのだった。彩の両手が、私の両手首を掴む。そうして私を引きはがそうとするが、その力はかわいそうなくらい弱々しかった。力を抑えているのだな、と思った。命の危機を守るための反射的な行動と、私のことを受け入れようとする心持ちが相反していて、彼女にこういう行動をとらせるのだな、と思った。丸っきり私のことなど忘れて抵抗してくれてもいいのに、とも思った。どうせ彩の華奢な体では、私のことを引きはがすなど無理な話なのである。
 私は掌で、彼女の血管の力強く抵抗するのを感じる。押し返してくるような、若くて弾力のあるその肉の感触を味わう。彩は苦しさに顔をくしゃくしゃにし て、私の下で喘いでいた。苦悶の色を呈したその瞳が、私のことを映している。ちひろ、と消え入るような声で彩が私を呼ぶ。ちひろ、ちひろ、ちひろ、と。私は思わず、両手に強い力を込めてしまう。彩が奇妙なうめき声をもらす。このままではすぐに事切れてしまいそうだ、と私は慌てて筋肉の緊張を緩める。こんな時に名前を呼ぶのは、卑怯だと思う。私は自分が異様に興奮しているのを自覚した。息も激しく乱れ、頭がひどくくらくらとした。堪らなかった。どうにかなっ てしまいそうだった。
 ふと、どこか醒めた頭の中で考える。このまま彩を殺してしまったら、私はどうするのだろう。多分、普段どおりの生活をするのだろうな、と思えた。彩の呼吸がなくなったのを確認したら、私はホットミルクを一杯飲んで、ベッドに潜り込むだろう。そうして翌朝、冷たくなった彩をそのままに自分の身支度をすませて、出かけていくのだろう。日常生活に支障が出くるまで、私はそうして暮らしていくのだろう、と思った。しかし、その生活には張り合いがないように思え た。トランプタワーは、もう作れないのである。私はぞっとした。私はいまこの瞬間、彩の今にも崩れ落ちようとしているこの瞬間が、人生のなかで最も甘やかで、美しいものなのだと確信していた。もしこのまま、このトランプタワーを崩しきってしまえば、もう二度と、この瞬間を味わうことができなくなってしまうのである。その思いに至った途端に、私は彩の首から両手を離した。
 彩は上体を半分だけひねって、はげしくむせ返った。げほげほげほ、とそれはつらそうな様子だった。私は彼女の背中を撫でてあげる。大丈夫と尋ねると、彩は小さく頷いた。随分と時間が経って、ようやく彩は落ち着いた。
「どうして、殺さなかったの?」
 第一声はそれだった。私はてっきりやり過ぎたことを責められると思っていたので、なんだか拍子抜けしてしまった。
「……今はまだ、その時じゃないかな、って思って」
 ふうんと、彩は言った。そして、彼女は小さく笑ってみせると、
「それじゃあ、その時が来たらちゃんと殺してね」
 そんなことを言うのだった。私はなんだか呆れてしまって、
「……彩って、絶対変だよね」
「ちひろこそ」
 私たちはお互いの顔を見やって、それからくすくすと笑いあった。とてもおかしくて、私たちはお腹の痛くなるくらいに笑った。
 それから、私たちは再び、並んでベッドに潜った。私は、彩の小さな体を抱きしめる。暑いよ、などと言いながら、彩も私に抱きついてきた。その晩、私たちはそうしてぴったりくっついて眠った。私が最後に見たのは、穏やかな彩の寝顔と、カーテンの隙間から射す、冬の月明かりだった。それから私は目をつむって、そのまま深い眠りのなかへと落ちていくのだった。

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