アパートの階段を下りながら、私は憤慨していた。まったく詩乃ときたら、なんて失礼なんだろう。私は数時間前に彼女と交わしたやり取りを思い返して、やはりかっとするような怒りを覚えるのだった。自然と歩き方が荒くなって、階段はカンカンと、いつもより大きな音を立てた。本当に詩乃ったら——口のなかで何度も呟く。あんな人、もう知らない。
 階段を下りきって歩道に出ると、夜の到来の気配がした。西の空は明るい橙に燃えて、空気はほの暗い青色を帯び始める。もうこんな時間だ。全部詩乃のせいだ、と思う。彼女のせいで、普段なら楽しいはずのプロレスDVDもまったく楽しめなかったし、怒りのために所々中断して自分を落ち着かせなくてはならなかったので、見終えるのにも随分時間がかかったのだった。
 夕暮れの涼しい空気をいっぱいに吸う。もう夏はすっかり遠のいて、秋がすぐそこまでやってきていた。
「こずえちゃんっ」
 不意に後ろから声をかけられて、驚いて振り向くと雄太君がいた。右手に、かざぐるま。私はしゃがみ込んで彼と目線の高さを合わせると、軽く微笑んでみせる。「こんばんは、雄太君」
 こんばんは、と彼も返してくれる。雄太君は近所に住む五歳の男の子で、この辺りでよく遊んでいる。私も時々、一緒に散歩したりボール遊びをしたり追いかけっこをするのだ。
 そこで私は、雄太君にいつもの快活な表情がないことに気がついた。彼にしては珍しく、不安そうな顔で私を見るのだ。
「雄太君、どうかしたの?」
「こずえちゃん、詩乃おねえちゃんとけんかしたの?」
「いや、えっと……」
 返事に窮してしまった。
 詩乃のことは忘れてしっかり夕ご飯の買い物に行こうと、気を取り直していたところだったので、すっかり油断していたのだ。まさか、雄太君にその一件を追及されるとは思わなかった。
「さっき、怖い顔の詩乃おねえちゃんに会ったから、けんかしたのかなって……」
 風が吹いてきて、雄太君のかざぐるまがくるくると回った。
 雄太君がひどく悲しそうな顔をするので、私は胸が痛んだ。雄太君にこんな表情をさせるなんて、やはり詩乃は許せない。
「大丈夫。ちゃんと、仲直りするから」
 私は明るい声で言う。「だから雄太君も、元気出して」
 雄太君は顔を上げると、うん、と大きく頷いたのだった。
 もう夜ご飯だから、と言って雄太君が帰路についたので、私も立ち上がって彼に続いた。途中まで、道が一緒なのだ。今日の夜ご飯はハンバーグなんだ、と雄太君が少し自慢げに言う。それは素敵だね、と私も相槌をうつ。実際、雄太君のお母さんは料理がとても上手だ。
「それでね、デザートは梨なんだよ」
 雄太君が弾む口調で言う。彼は梨という単語を、とても嬉しそうに発音した。梨。そこで私は、この秋に入ってまだ一度も梨を食べていないことに気づいた。
「梨かあ」
「うん。食べたい?」
「すごく」
「でもだめー」
 雄太君は少し意地悪だ。
 雄太君の家の前で彼と別れると、私はまっすぐにスーパーへと向かった。気分はすっかり梨になってしまった。みずみずしくて、さらりと甘いあの果実。私はうっとりとしてしまう。ちょうど見上げた月も、梨を思わせるように丸い。買うしかないわ、と思った。今日買わなかったら、一体どうしようというのだろう。
 自然と軽い足取りで、私は街灯の煌々と明るい夜道を歩いていった。


 それから二日が経って、私と詩乃はいまだにけんかしていた。
 なるほど、これが本当のけんかというものなのか、と驚いてしまった。実は私たち、これまであまりけんかというものをしたことがないのだ(口げんかなら何度かあるが、三十分もすればお互いどうでもよくなってしまうような、些細なものばかりだ)。だからこれだけの間彼女と連絡を取らなかったのは初めてのことで、詩乃と関わりのない生活はとても新鮮なものだった。新鮮で、味気のない生活。詩乃と付き合う前まではずっとこうして暮らしていたのかと思うと、不思議な気分になるのだった。
 この二日間、私は詩乃と梨のことについて考えて過ごした。詩乃と交わしたけんかのやり取りを思い返してむしゃくしゃとし、二日前に買えなかった梨のことを思って悲しくなった。
 二日前、雄太君と別れたあとに向かったスーパーには、梨が置いてなかったのだ。売り場をいくら探しても無いので、不思議に思って従業員に聞いてみると、彼はまだ入荷していないと言うのだった。そろそろだと思うのですが、と言ったその声を、私は打ち拉がれた気分で聞いた。梨が売っていないなんて、そんなまさか。だったら、雄太君のお母さんはどうやってそれを手に入れてきたのだろう。
 私はどうしても梨を食べたいのだった。
 梨さえあれば、万事うまくいくような気さえしていたのだ。
 詩乃のことを考える。あの日詩乃は突然にうちにやってきて、ちょうどその時私はプロレスのDVDを見ていたところだった。それが本当に良いところだったので(三沢光晴と小橋建太の対戦だ)、私は詩乃に対してお茶だけ出してすぐにDVD鑑賞に戻ったのだ。詩乃は、
「漫画読んでもいい」
 と私に尋ねた。私はそれに気のない返事をして、ますます画面を注視した。場面はどんどん盛り上がる。私の頭も、だんだんと熱を帯びてくるのだった。この時私の眼中に、詩乃はなかったのである。
 気がつくと、彼女は私の隣に来ていた。私の髪を梳いたり、いじったりしていたので気づいたのである。しばらくは何も反応しなかった私だったが、そのうちに煩わしくなってきて、
「やめてよ」
 ちょっと険のある声を出した。
「だって暇なんだもん」
「漫画読んでたらいいじゃない」
「もう飽きたよ」
 詩乃はちっとも悪びれない。漫画に飽きたからといって、どうして私の邪魔をするのだろう、と私は苛々し始めた。そうして強い口調で、
「邪魔しないでよ」
 そう言ってしまった。この一言が、詩乃をひどく傷つけたのだった。 
 詩乃は私の言葉に驚いて、それから顔を真っ赤にして怒りだした。彼女は手元にあったリモコンを持つと、テレビの電源を消した。
「ちょっと、なにするの」
 すごく良いところを邪魔されて、声がつい鋭くなる。
 詩乃が何か小さく、吐き捨てるようにして呟いた。しかしあまり小さすぎて私には聞こえず、「なに」と聞き返す。すると彼女は突然立ち上がって、
「プロレスなんか、どこがいいのよっ」
 ものすごい大声で言ったのだった。その時の詩乃の顔を、私は忘れない。肩までの茶髪を揺らして、普段の落ち着いた表情もどこへやら、顔をくしゃくしゃにして私を睨んでいた。あれほど怖い詩乃を、私は初めて見たのだった。
 詩乃の言葉に、私はかっとなってしまった。プロレスへの侮辱だ。信じられない、と思った。実際私は、信じられない、と荒々しく言った。全身の血液がどろどろになって、顔がひどく熱くなった。
 それからは売り言葉に買い言葉、私たちは大きな声でけんかをして、結局私は詩乃を部屋から追い出したのだった。
 こうして思い返してみると、私は何てひどいことを言ったのだろう、と思う。詩乃は、自分よりもプロレスのほうが優先されていると感じて不愉快だったのに、私はそのことに気づけなかった。自分のことばかり、考えていた。
「あーあ」
 大きく息をはいた。けれど私は、詩乃が悪いんだわ、と自分に言い聞かせていた。詩乃が悪い詩乃が悪いと唱え続けて、しかし心の一番冷静な部分では、しっかり自分の過失を認めていた。私の内側で、自尊心と正しい心とが矛盾を起しているのだ。そしてこのこじれは、そう簡単に解消しない。梨があればうまくいくのに、と思った。梨があれば、頑な心の表層を破って、ちゃんと謝れるのに。
 私は大学からの帰り道で、もう辺りは暗くなりはじめていた。西の空で太陽が静かに燃え、東には丸い月がぽっかり浮かんでいた。すっかり秋の夕暮れだ。
 寄り道もせずアパートまで帰ってきて、カンカンと階段を上りきったところで、おやと思った。私の部屋のドアノブに、白いビニール袋がかけてあったのだ。表に、近所のスーパーの名前が印字してある。お隣さんか何かかしらと純粋に不思議がる一方で、私の中には儚くて、けれども完璧な確信があった。
 ビニール袋のなかには、一つの梨と短い手紙が入っていた。可愛らしい便箋に、綺麗な文字でたった二行。
 
 雄太君から聞きました。
 ごめん。

 私はその手紙の情けなさにちょっと笑って、それから急に泣きそうになってしまった。詩乃に電話をしなくちゃ、と思った。何よりも、早く。
 数コールのうちに彼女は出た。
『……こずえ』
「久しぶりだね」
 そう言うと詩乃は少し笑った。『確かに、そうかも』
 懐かしい、詩乃の声。
「ごめんなさい」
 謝罪の言葉は、すんなり出てきた。詩乃を前にして、私は素直であらねばならない、と思った。やっと入荷した梨と、そして情けない手紙に免じて。
『私こそ、ごめん。こずえのことちっとも考えてなくて、独りよがりだった』
「ううん。それは私も同じだから」
 仲直りの、温かなくすぐったさ。電話越しにお互い沈黙してしまい、詩乃の息づかいを感じて、私はなんだかドキドキと落ち着かなくなってしまった。
「うちにおいでよ」
 一緒に梨を食べようよ。明るい声でそう誘うと、詩乃はうんと言った。
『すぐに、行くよ』
 麻婆豆腐を作ろうと思った。彼女は私の作る麻婆豆腐をとても気に入ってくれていて、料理すると喜んでくれるのだ。そしてそれから、食後にお茶を淹れて、デザートに梨を食べる。それはとても、素敵なことのように思えた。
 部屋に入ってすぐに支度を始める。おもてはもう宵闇の紺色に染まっている。テーブルに置いた梨は、九月の月のように丸くて、少し胸を張って得意げな様子だった。

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