花泥棒

 身体が乗っ取られた。それは一瞬の早業だった。私は気がつけば、ひどく無防備な格好でそこに立っていた。
 いま目の前には、私自身がいる。私の肉体だ。肉体だけだ。私はそれを外側から見ている。私の肉体は、まるで私自身がその内から消えてしまったことにも気がつかないみたいに、私のやりかけの作業——三十分もかかるアンケート——を続けている。ちょっと待ちなさい、私自身が不在なのに回答できるわけないでしょう、と私が慌ててパソコンの画面を覗き込むと、問いは十六番まで進んでいた。Q.16、あなたは自分をXXXだと思いますか? 1.まったく当てはまらない。2.当てはまらない。3.どちらとも言えない。4.当てはまる。5.よく当てはまる。
 2かな、と思うのとまったく同時に、肉体は2を選択する。次、Q.17、XXXは充分に取れているか。これも2。すると肉体の方も2を選ぶ。もしや、私は肉体から外にはじき出されてしまったけれど、それでもまだその間には繋がりが残っているのではないか、それを確かめるために、私の肉体よ、今すぐ立ち上がって紅茶を淹れなさいー淹れなさいーと強く念じたけれど甲斐は無かった。それどころか、その間にも肉体の方は勝手にアンケートを進めているのだった。Q.18、Q.19、Q.20。どれも、いかにも私の選びそうな番号がその通りに選ばれている。
 私はまじまじと、私の肉体を見た。こうして自分の横顔や、パソコンをいじくる様子を観察するのはおかしなことだ。そしていま私には重大な問題が立ち上がっているのだった——この肉体のなかには、一体誰がいるのか?
「答えなさい」
 無視。
「答えて」
 肩に触れようとするけれど、物質世界と精神世界がお互いに干渉できないみたいに、まるで手応えがない。
 乗っ取られたのだ。
 ほんの少しの気のゆるみを、その誰かは逃さなかった。そいつは、何らかの方法で精神世界から私の身体にアクセスして、手際よく私を蹴り出して、するりと、新しい空席にすべりこんだ。そうしてほっと一息、寄生先の身体の具合をさっそく確かめるかのように、手始めに目前の仕事を片付けようとしている。乗っ取られた。乗っ取られた。
 乗っ取られたこと自体、非常に大変なことなのだけれど、もっと困ったことに、今日は知子が遊びにくることになっているのだった。もしも私の中身が私でないということが彼女に知られれば大騒ぎになる。私は肉体を奪い返さないといけない。それで、私は私を殴りつけたり、足蹴を喰らわせたり、罵声を浴びせて、けれどそれらの全てが無意味であった(もちろん殴るための拳もないし、足もなければ声帯もないので、その行為は私のイメージしたことに過ぎなかった)。私は平然で、例のアンケートを続けるばかりだった。
 そのうちに私は立ち上がって、時計をちらりと見ると、約束の時間まであと一時間といったところだ。私は大きく伸びをしてから欠伸をひとつ、キッチンに立って水を飲んで、それから気だるそうに部屋の片付けを始める。そして私は絶望してしまう。その一挙手一投足が、まさしく私のやりそうなことであったから。普段からそうだった。気分をしゃっきりさせるのはグラス一杯の水であり、知子を迎えるための簡単な掃除を、ちょうどこのくらいの時間から始めるのだった。私はまったく私であった。その中身が何であろうと関係なく、身体が覚えているのか、あるいは新しい宿主が非常に優秀で、私の行動パターンをもうすでに習得してしまったのか、そのどちらにしても、知子が私に起こった事件に気がつくことはない、と確信できた。私はぼろを出さない。私は完璧に私を演じ切る。
 私はもうとても見ていられなかった。
 時間の五分前に知子はやってきた。彼女がいつも少しだけ早くやってくるのを私はちゃんと分かっているかのように、その十分前にはそわそわ落ち着かない様子で、水を飲んだりテレビをつけたり消したりした。
「こんにちは」
 知子はおどけて言う。私はほころぶ頬を無理に硬直させた滑稽な顔で、いらっしゃい、と彼女を歓迎する。知子はくすりと笑う。なによ、と私は言う。べつに、と知子。映画を見ようよ、来るときに借りてきたの。
 そうして二人はそのようにした。ソファに並んで座って、コカ・コーラを飲みながら。
 映画の内容はありがちなサスペンスホラーで、知子の好みだけど私には退屈だろうな、と思っていると律儀に私は欠伸をする。知子は咎めるみたいに私の頬をつまむ。なによ、べつに。知子のグラスが空いたのを見て私は新しく飲み物を注ぐ。こうして外から見ると、私は結構、気が利くのだな、と感心したりする。ああでも、もうあれは私ではない私なのだ。そんな様子を部屋の隅から眺めていた。二人は完璧なカップルだった。ほんの二時間前まで、そのうちの一人は確かに私だったのに。
 映画が終わってしまって、
「終わったね」
「うん、終わった」
「どうだった?」
「まあまあかな」
「まあまあねえ」
「そう、まあまあ」
「ご飯まで時間あるね」
「そうねえ」
「ね、また欠伸して。そんなに眠いならベッドに行けば」
「怒らないでよ」
「怒ってないよ」
「じゃ、誘ってる」
「そう思う?」
「どうかな」
「——ちょっと待った!」
 これはまずい非常にまずいこの雰囲気はいわゆるあれを予感させる雰囲気なのだった。私はソファの二人を引き剥がさんとその間に割って入るけれど、私は無力で無存在で、私と知子はお互いの視線の熱を楽しんでいる。うわあ、私こんな顔をするのか、いやらしくて浅ましい感じがする、なんて見ているとまず身体を寄せ合うことから始まる。私の指先は知子の毛先をそっと揺らして、首の血管をひっかくみたいに撫でる。耳に唇を寄せる。ちょっと待った。私は目を覆いたい。ここから逃げ出してしまいたい。目の前で知子が汚されていく様は、体の細胞一つ一つが発火して血液全部が沸騰して消し炭になってしまいそうなくらいに私に怒りを与えた。けれど逃げてしまえば知子は完全に奪われてしまう。ねえ、ねえ、ねえ。ちょっと聞きなさい。その手を止めなさい。くすぐったそうに笑いあうのをやめなさい。やめなさい、やめなさい、やめなさい。キスをやめなさい。ハグをやめなさい。服に手をかけるのをやめなさい。くすくすが溢れて止まらないのを。世界に二人しかいないみたいに振る舞うのを。お互いの全部を全身で味わおうとするのを。
「ね、さっきからうるさいよ」
 はっとして、顔を上げれば私は私を見ていた。私越しに何かを見ているのではなく、確かに私を見ていた。私は興ざめしたみたいに小さく息をついて、
「これからいいところなんだから」
 そして、ねえ、と知子に同意を求めた。ほんと、と知子は頷く。ブンブン喚くだけの虫みたいで不快、そしてくすくす笑い。
 私は気が遠くなる思いだった。言葉を失いかけて、目の前がちかちかした。「私が見えるの、ていうか、私が私じゃないのを、知子は知っているの、知っていたの」
「うん」
 知子は頷く。「だってそれを言ったら、私はもう何週間も前から、私じゃないのよ」
「は……」
「気づいてなかったの」と私が呆れるみたいに言う。
「そんなんだから、簡単に奪われるんだよ。この知子ちゃんも楽勝だったもの。おとぼけカップルね」
「じゃ、じゃあ、本当の知子はどこにっ?」
「本当とか、本当じゃないとか、もう定義できないと思うけど、」知子だった知子は笑う。「元の宿主はそのまま家にいるんじゃないかしら。私、インドア派だし」
 あはははは。あはははは。あはあは。
 私は駆け出していた。あはははは。背後に聞こえるたくさんの笑い声を置いて部屋を飛び出す。階段をすっとばし、あはははは、そうだ私には自転車があった、それに乗って、急ぐことにする。けれど、魂の重さは21グラムなのです。私はそれを知っていた。21グラムじゃとても自転車なんて漕げない。走ることに決める。
 肉体を追い出されて初めて気がついたことに、街は私のような、かなしい魂で溢れかえっているのだった。これは新手のパンデミックかしら、それとも、虫が脱皮を繰り返して成長するのと同じで、魂にも”脱皮”があるのかしら(私たちは最早、土に還るさだめの、抜け殻に過ぎないのか?)、あるいは異性人の襲来か、宇宙戦争か、物体Xか。ずうっと前からきっとこうだったのだ、鈍い私が気がつかなかっただけで、あのコンビニの店員も、図書館の司書さんも、テレビで見る芸能人も、偉い人も偉くない人も、みんな肉体を、例の早業で奪われて、魂だけがみじめに、宛てなく彷徨っていたのだ。私はいま汚い生理的害虫を踏んづけた。見れば、それらの死骸は道端のあちこちに転がっているのだった。その中には死に損ないも混じって、おぞましい六本の脚を天にむけてばたばたと足掻いていた。そんなのが何匹も何匹もいる。彼らの脚の一本ごとの、肉の付き方や、油のぬめりや、細かに生えた毛を見た。六本はそれぞれが独立した生き物であるかのように振る舞った。触覚の先端が震えた。彼らは全身全霊で生に執着して、やがて、その動きは緩慢になって、ゆっくりと息絶えていった。死は長い時間をかけて享受するものだ、と思った。氷が暗い部屋のなかで、音も立てないで、人知れずに融けていくみたいに。
 異様なことだった。一瞬ですべてを奪われた魂たちも、生理的害虫の死骸の山も。けれど、それらの何よりも、知子が優先された。いくつもの魂を追い越し追い越し、いくつもの死骸を踏んづけ踏んづけ、私は走った。私の魂は次第に、油で黒く染まっていくようだった。あの不快害虫たちの油。いやなにおい。反吐の出る思いだ。でもそれに構っていられない。
 知子の部屋はアパートメントの三階である。そこへ至る階段にも害虫の死骸。気にしないようにして駆け上がってチャイムを鳴らす。二度、三度では足りない。逸る気持ちで、しつこく連打をする。知子は出ない。知子は嘘を教えたのかしら、と思って、ふとドアノブに手を掛けると、それは少しの抵抗もなく回るのだった。
 室内は薄暗い。
「知子」
 声をかける。静寂で耳が痛いほどで、私の、軽く発したはずの声は、ぐわんぐわんと意外なほどに反響した。この部屋はどれだけの間沈黙していたのかしら。全然気がつかなかった。全然、全然。
「知子」
 彼女は寝室で、ベッドに横たわっていた。慌てて近寄って、その頬に触れると、知子はぴくりと体を震わせてゆっくりと目を開いた。その虹彩と水晶体が、私の姿をとらえるために必死に働いているのが、いやというほど分かった。
「……晴」
「うん、そうだよ、ね、喉が渇いているでしょ、いま飲み物を持ってくるから」
 知子は小さくかぶりを振って、緩慢に腕を持ち上げると拳を握って私の肩にパンチを浴びせた。
「おそいよ……晴はばかね」
「……本当にね、私、全然気がつかなくて、何にも、知子がずっと苦しんでいたのに、脳みそがないみたい、まぬけで、気がつかないで」
「ほんと」知子は笑ったみたいだった。「でも、最後にはちゃんと来るんだから、怒れないの。いつもそう」
「……」
「ね、魂のゆくえを知っている?」
「……」
「私はね、真っ白の、ちょっと狭苦しい部屋みたいな、そんな場所なんじゃないかと思っているの」
「……」
「あとで、教えてあげる」
 知子がそっと目をつむった。ちょっと、ねえ、ちょっと。長い時間をかけて享受するものを彼女は受け入れはじめていた。
「知子」
 あ、と思う。目をつむって、あごを軽く上げるその動作は、いつもの彼女の癖だった。ごめんね、は声に出せなかった。そうして長い時間が経った。唇を離せば、白いシーツの上にはひらりと一枚、つめたい薄青の花弁があるばかりだった。なるほど21グラムである。人の魂はひとひらの花弁であった。

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