静かな午後の日

 コーヒーが飲めたらなあ、とずっと思っている。渋くて苦いブラックコーヒーを、まるで大人のするみたいに飲めたらなあ、と。
 ということを結衣ちゃんに話してみると、彼女はふうん、と言って目をぱちぱちとさせた。
「ブラックコーヒー、飲めるようになりたいんだ」そう言う彼女の片手には、淹れたばかりのブラックコーヒーのカップが握られている。
 私が頷くと、結衣ちゃんは自分のカップをこちらに差し出した。
「良かったら、飲んでみる?」
「うーん、でも……」
 ちょっと悩んで、一口だけもらうことにした。カップを受け取ると、コーヒー特有の香りがふわりと立つ。香ばしいようなその匂いは、私を少しだけ大人の気分にさせる。
 しかし結局、そのコーヒーは苦すぎて、私はごほごほと咳き込むはめになってしまった。結衣ちゃんはそんな私をくすくすと笑って、私からカップを奪う。「別に、無理して飲むことないよ」
「でも、」私は、目の端に浮いた涙をぬぐいながら続ける。「結衣ちゃんがコーヒーを飲んでる隣で、オレンジジュース飲んでるなんて、なんだか格好悪いよお」
「そうかなあ」すこし首を傾げて、結衣ちゃんはコーヒーをすすった。
「好みなんて人それぞれだし、気にすること無いと思うけど」
 そう言い切ってしまってから、彼女はもう一度、コーヒーカップに口をつける。
 私は、結衣ちゃんほど格好よくコーヒーを飲む人を他に知らない。お父さん、お母さんや街の喫茶店で見かけるどんな人よりも、結衣ちゃんの姿は様になるのだ。コーヒーカップを片手で、気取らない風に持ち上げて、ゆっくりと口に運ぶ。そしてそっとカップに口をつけて、一口だけコーヒーを口に含むのだ。その飲み方はとても自然で、コーヒーも、お洒落なカップも、大人めいたその香りも、全部結衣ちゃんのために作られたもののように思えてしまう。
 私もコーヒーを飲めるようになれば、もっと結衣ちゃんに近づける気がしているのだ。コーヒーを飲むその姿の魅力を、もっと深く理解できるような気がするのだ。
「コーヒーは、結衣ちゃんにすごく似合ってるよお」
 私が言うと、彼女はちょっとだけ顔を赤くした。「……そうかな」
「そうだよ。あかり、結衣ちゃんのコーヒーを飲むところ、すごく格好いいと思うもん」
 賛辞を重ねると、結衣ちゃんは口をむっと曲げて、そっぽを向いてしまった。照れているのだ、と気づいて、私はくすくすと笑ってしまう。「なに笑ってるんだよ」と、結衣ちゃんが赤い顔でこちらを睨んでくる。
「何でもないよお」
 私はそう答えながら、けれど笑いは治まらないままだった。結衣ちゃんはぶすっとしてしまって、コーヒーをずずずと飲んでいる。その姿さえも格好が良い。ずっと見ていたいくらいに、すごく。
 窓から、優しい冬の日差しがさしている。結衣ちゃんの家は耳ざわりの良い静けさで満たされて、私たちの間に流れる空気は、ぬくぬくと温かだ。
「私は、オレンジジュースを飲んでるあかりが好きだよ」
 結衣ちゃんが、ふっと言った。視線を少し逸らして、こちらには向けずに。まったく結衣ちゃんらしいやり方で。
 私は彼女の言葉を咀嚼して、
「それって、あかりがお子様ってこと?」
 ちょっとだけ抗議めいた色を含ませて、応える。すると結衣ちゃんは首を横に振った。
「そういう意味で言ったんじゃなくて、その、」彼女は、少し照れくさそうだった。「……苦そうな顔でコーヒーを飲んでるよりも、笑ってオレンジジュースを飲んでるあかりの方が、好きってこと」
 結衣ちゃんの言葉に、私は手元にある、オレンジジュースの注がれたグラスを見つめる。なんだか突然に、その橙色がとても好ましいもののように思えてくる。私は嬉しくなって、オレンジジュースを一口飲んだ。結衣ちゃんに笑いかけると、彼女もカップを片手に、微笑みで応えてくれる。
 静かな午後の日。私たちは、おおむね平和だ。

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